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庭の花の移り変わり2011年1月から3月までの纏め。

Sat, 16 Apr 2011 17:58:54 +0900

庭の花の移り変わりをだいたい毎日twitterにツイートしている。その2011年1月から3月の分を日付順に纏めてみた。これを読んでもどうってことないけど。 野ぼたんの紫の花は、昨日一つ散って二つ咲いて、咲いている花は三つになった。水仙とヒメジョオンとメキシカンセージは変化無し、カニサボテンも。 2011-1-2-14:20 花の位置が変わったように感じて、野ぼたんの花は二つの花が交代したようだ。水仙の花は花びらを開き切って、もう一つが開き始めた。ヒメジョオンとメキシカンセージとカニサボテンは変化していない。 2011-1-3-14:26 野ぼたんの花が四つになった。開き切った花とおずおずと開き始めた花をつけた水仙。メキシカンセージの花は少し減ったようだ。ヒメジョオンとカニサボテンは変わりない。 2011-1-4-13:30 水仙の花は二つ咲いている。別のプランターに別の水仙が芽を出した。野ぼたんは二つ散って二つ咲いた。ヒメジョオンの茎が折れたので支えをつける。メキシカンセージとカニサボテンは変わりない。 2011-1-5-14:42 野ぼたんの花が五つになった。水仙の二つの花の間の蕾が大きくなってきた。ヒメジョオンは茎が折れて苦しそう。メキシカンセージとカニサボテンは変わりない。 2011-1-7-18:28 庭の吹き込んでくる冷たい風に野ぼたんは花を一つ落として、四つの花が揺れている。水仙の二つの花の間の蕾は少し大きくなったように感じられる。ヒジョオンは枯れてしまった。メキシカンセージとカニサボテンは変わりない。 2011-1-10-13:42 別のプランターの水仙の芽が5センチくらいに伸びている。咲いている水仙は二つ、膨らんできた蕾が二つ。野ぼたんは花が三つになった。ヒジョオンは枯れたが、萎れた花はまだ落ちてない。メキシカンセージとカニサボテンは変わりない。 2011-1-11-14:34 昨夜、トイレに起きたとき庭を覗いてみた。窓から漏れる光に丈があるのぼたんは見えたが、花の在処はよく分からなかった。光が当たらない他の花も分からなかった。寒いので急いでベッドの戻って布団を被った。 2011-1-12-14:02 咲いている野ぼたんの花は二つになってしまった。その内の一つは片側の花びらが落ちてしまっている。三つ目の水仙の花が開き始めた。ヒメジョオンは花の姿がない。メキシカンセージの花は減ったが、カニサボテンは変わりない。 2011-1-14-13:28 部屋の光に浮き上がった野ぼたんの数枚の葉群れが今のところの夜の庭のイメージです。 水仙の三つ目の花が咲いた。野ぼたんの花は一つになってしまった。萎れた野ぼたんの花はまだ花びらを落としてないけど。 2011-1-15-15:15 野ぼたんの花が全部散ってしまった。ちょっと寂しい。水仙の花は三つ咲いて、二つの蕾が膨らんできた。メキシカンセージは花の数が少なくなっている。カニサボテンの二つの花は変わりない。 2011-1-16-14:33 水仙の三つの花は重なるように咲いている。最初に咲いた花も枯れたり萎れたりする様子もない。冬の日差しが居間の椅子や床に奥深く差し込み移動するのを猫が追って日向ぼっこしている。 2011-1-17-13:24 水仙の四つ目の花が開き掛けている。咲いているのは後、メキシカンセージの花だけ。今日も猫が日だまりを追って日向ぼっこしている。 2011-1-18-13:14 水仙の四つ目の花が咲いた。四つの花が重なるように咲いている。ところで、昨日、Twitterに書[...]



「現代詩手帖」2011年1月号の「現代日本詩集2011」の詩の解題

Sat, 02 Apr 2011 16:52:31 +0900

 2011年、つまり今年の1月から3月にかけて、「現代詩手帖」1月号の「現代日本詩集2011」の詩を全部読んでその解題を書いて、連日「twitter」に一つずつ掲載した。現在書かれている詩がどういうものか、一つ一つ確かめてみたかった。 「現代日本詩集2011」に作品を発表しているは90歳代から20歳代の詩人を代表している51人だが、詩を書く人は日本全国ではおよそ1万人ぐらいかもっと多いのではないと想像する。多くの人が「詩」を言葉を書くための「器」とか「乗り物」とかにしているように思える。詩って何だろうと思う。 2011-3-21-18:21 「現代詩手帖」1月号の「現代日本詩集2011」の49作品を読んで解題を試みたが、詩人達は言葉の出し方やその出方に力を注いでいるようだが、それぞれの詩の言葉の出され方を適切に述べられなかったと感じた。つまりそれぞれの詩人が何故そういう詩を書くのかを述べる力の無さを感じさせられた。 2011-3-20- 「現代日本詩集2011」の「連載詩」の枠では、1933年生まれで77歳の中江俊夫さん35年生まれで75歳の北川透さん79年生まれで31歳の岸田将幸さん、三人はテーマと詩法を持続させていると、そして連詩の78歳の新藤涼子さん49歳の河津聖恵さん29歳の三角みづ紀さんたちは楽しんでいるに見える。 2011-3-18 連詩「悪母島の魔術師(マジシャン」新藤涼子・河津聖恵・三角みづ紀 「現代日本詩集2011」の「連載詩」の枠の連詩では、1932年生まれの新藤涼子さんの詩で森の中のベンチに死体が空想され、1961年生まれの河津聖恵さんの詩でクレソンの青い茂みに帽子を被らない死者が現れ、1981年生まれの三角みづ紀さんの詩で大きすぎる帽子が目障りと受け止められる。 2011-3-17-17:44 連載詩 岸田将幸「絶対主義、避けたザクロ」 「現代日本詩集2011」の「連載詩」の枠で、1979年生まれの岸田将幸さんの詩は、詩を書く者にとっての詩の意義を追究し、人を掘削すべき土とするなど感性に訴える独特の思考を断言的に展開して、個の限界を超えた共同としての詩の「絶対主語」を目指す決意を歌い語っていると受け止められる。 2011-3-15-11:21 連載詩 中江俊夫「青空」 「現代日本詩集2011」の「連載詩」の枠で、1933年生まれの中江俊夫さんの詩は、4行2連と3行2連を交互に組み合わせて、自分が言葉を書くことを木々も細々と書いていると自然に照らして考えて、謎のままに、最後に人の身体に纏わるいろいろな慣用句を列挙構成して人臭さを浮かび上がらせる。 2011-3-13-17:13 連載詩 北川透「大凶事昔暦」 「現代日本詩集2011」の「連載詩」の枠で、1935年生まれの北川透さんの詩は、海峡の淵に立つ海水に浸食され沈下した棺状の古い空マンションに住む自称語り部の老婆を登場させ、元住民の影の騙りと云って、詩と現実の様々な問題を妖怪相手に皮肉を込めて誇張した言葉で芝居風に語らせている。 「現代日本詩集2011」の「作品7」の枠では、生まれが1969年の小川三郎さんが41歳70年の水無田気流さんが40歳74年の蜂飼耳さんが36歳80年の鳥居万由美さんが30歳82年の山田亮太さんが28歳91年の文月悠光さんが19歳で、皆さん自己存在と書くことに拘っていると見られる。 2011-3-9-15:48 文月悠光「余白を孵す。」 「現代日本詩集2011」の「作品7」の枠で、1991年生まれの文月悠光さんの詩は、日常で自己を見失いそうな自分が、他者から余白になれと[...]



近況のこと。

Fri, 31 Dec 2010 18:01:51 +0900

この一年わたしの病身を気遣って下さった方々に感謝します。わたしは毎日同じような日々を送っています。ベッドに横になるのを主とした生活です。朝は7時半頃起きて紅茶を入れてパンを焼き麻理が作ったサラダで朝食を取り薬を九錠呑み朝刊を読みます。政治欄などを細かく読むのがこの頃の習慣になっています。その後日録を書きます。昨夜の夕食のおかずなど思い起こすのにちょと時間が掛かったりします。読んだり書いたりして目が疲れてベッドに横になり、テレビで「八丁堀の七人」とか「素浪人月影兵庫」などの時代劇の再放送を見て、必ず天気予報を見ます。それから昼食にはうどんを食べ薬二錠とサプリメントを呑みます。食後、eMacが置いてある仕事場に行き、メールとTwitterとMixiをチェックして、メールに返事を書いたり、Twitterに花の数を書き込み、詩集を読んだりその詩集について書いたりするとまた目が疲れてディスプレイの文字が読めなくなって、ベッドもどって横になり「新科捜研の女」とか「相棒」とか「京都地検の女」とか「京都迷宮案内」とかの再放送を見ます。そして続けて毎日楽しみにしている「水戸黄門」の再放送を見終わって、ベッドから起きてテーブルに行き、茹でたサツマイモ一切れと煎餅とかりんとうとかピーナッツを少しづつ食べ、続けて夕刊を読みます。天気予報とテレビニュースを見て、夕食になります。日曜日には夕食前に「笑点」を必ず見ます。夕食後薬を四錠呑んで、濡れたタオルで身体を拭き、下着を取り替え、身を屈められないので靴下を麻理に履かせて貰います。一日中靴下は履いたままです。そして再びベッドに横になり、テレビドラマを見ます。「龍馬伝」「水戸黄門」「セカンドヴァージン」「獣医ドリトル」「医龍3」「フリーター、家を買う」などを楽しみました。だいたい11時を過ぎて小さなサツマイモの欠片と干しいちじくを食べてサプリメントを呑み、ニュース「ZERO」を見て眠くなって眠りに着きます。毎夜、夜中に三,四回はトイレに行きます。去年の秋から今日まで、腰部脊柱管狭窄症と左右の人工股関節置換の三回の手術をした後の以上の生活パターンに、時には何度かお見舞いに来て下さった人たちと午後の一時を楽しく過ごすこともありました。



長田典子詩集『清潔な獣』の感想

Thu, 30 Dec 2010 18:28:37 +0900

 送って戴いた詩集を手に取ってパラパラと捲って、ページが活字でぎっしり埋まっているのを目にして、閉じたまま時間が経ってしまった。どうも散文になじめない。131頁の詩集の作品は全部で10編、その殆どの作品が行分けで書かれた部分より散文で書かれた部分の方が多く、行分けの2頁で終わる詩は最初の「蛇行」だけで、後の9編の詩は、短い詩で6頁、長い詩になると18頁に及ぶ長編なのだ。それらの詩の外観からして気楽には読めないという気がしたのだった。それから日が経って、Webで作者の長田典子さんのMixiの日記を見ているうちに、どうやら近々ニューヨークに行って長期滞在するらしいことが分かって、行かれる前に読んだ感想を伝えようという気になり、再び手に取って読んだのだった。  一気に読むというわけにはいかなかったけれど、全部の詩を読んで、特異な人物が登場する話として面白かったと言えば面白かったが、これらの作品をどう受け止めるかというところでまた迷った。というのは、詩の言葉の主体が作者自身と受け止められるのは行分け21行で書かれた「蛇行」だけで、他の詩は言葉の主体としては虚構の人物が設定されていて、その人物の内面の独白というか自分を語るという形で詩が展開して行くというように書かれているから、作品を成り立たせている言葉を直接作者に結びつけて受け止めることができないように感じたのだった。とすると、その言葉は人物の言葉として、作者がその人物になりきって書くとき、その人物になりきるということと、その人物の持つ意味合いが問題になるが、小説や戯曲であれば、その人物と他の人物との関係や運命から作者がその人物に持たせている意味合いが語り出されてくるが、この詩の場合は人物が語る言葉だけが書かれているので、そこが曖昧になってなってしまうのだ。従って、作者は単に自分が人物になって言葉を楽しむために書いているようにさえ感じられてしまうのだ。読者であるわたしはおいてきぼりにされた感じになってしまう。  この詩集の栞に川口晴美さんは「この詩集のように明らかに作者でないキャラクターの語りで、しかも散文詩形だと、これは小説ではないかと考える読者もいるかもしれない。だが、これはまぎれもなく詩だ」と書いている。それは「ストーリーを語るために言葉がつかわれているのではなく、痛みとともに生み落とされた言葉の連なりに牽引されてストーリー(のようなもの)がぼんやりあらわれてくる。たどっていくと見えてくるのはキャラクターたちの葛藤や成長ではなく、ただその存在の内側に巣食った卵としての言葉が作者によって次々と孵されていく気配だ」ということなのだ。つまり、作者が人物になりきるのは、その存在の内側に巣食った卵としての言葉を孵す気配を感じさせるためであり、それが詩だというわけだ。「卵としての言葉を孵す気配を感じさせるのが詩だ」といわれてみると、なるほどそうかと頷いてしまう。しかしそうかなと、ここでわたしの考えは一旦止まる。  川口さんの「卵としての言葉」という言い方は、詩集の最初の詩「蛇行」の「蛇か わたしは 蛇なのだ」と蛇になった「わたし」が「歪んだ湖面から発破音の響く場所へ/瓦礫の隙間へ/わたしの卵を産み付けに行く」という[...]



石原康臣さんの車で海老塚耕一さんの版画展を見に行った。

Sat, 11 Dec 2010 14:54:20 +0900

 昨日の午後、石原康臣さんが運転する車で、橋本の株式会社ハシモトコーポレーションの三階のギャラリーに行って、海老塚耕一さんのジークレー版画としての作品展を見に行った。手術後初めての病院以外の外出だったので、ちょっと不安があったが、無事に行って来られたのでほっとした。
 会場には、海老塚さんが昨年から今年の三月まで、観光船で西回りで地球一周した船室で制作した全紙大の平面作品を「高精細大型スキャナーで読み込んでアーカイブして、ジークレー版画として制作した作品」が、三十点展示されていた。赤と青と黄を基調に構成された色彩の上に緑の昆虫を思わせる図柄が散りばめられた迫力のある作品だった。その色彩が見るものに迫って来るような印象だった。海老塚さんは日常のしがらみから解放されたところで生まれた力でしょうと言っていた。会場ではその高精細大型スキャナーで読み込んでプリントしたものと元になった作品とが区別がつかないほどの精巧さが話題になった。画用紙の質感まで再現されていたのだ。わたしとしては、その「ジークレー版画」なるものに初めて出合ったわけで、驚くばかりだった。
 往復の車の中で、わたしは多摩美上野毛で助手をしていて今は大正大学の教員をしている石原さんを相手に、彼が知っている卒業生のことや映像教育のことについて喋りまくってしまった。日頃ベッドに横になって「水戸黄門」の再放送や「サスペンスドラマ番組」ばかり見て、人と話す機会がないので、溜まった話したい気持が堰を切ったように出てしまったのであろう。石原さんは来月またドライブに誘ってくれるというので楽しみだ。



左股関節の人工股関節置換手術を受けて、今日、退院した。

Fri, 01 Oct 2010 11:52:31 +0900

9月11日に慶應義塾大学病院に入院して、9月14日に整形外科の藤田貴也医師の執刀で人工股関節置換手術を受けて、その後リハビリ科で歩行訓練をして、どうにか伝わり歩きができるようになって、今日10月1日に退院した。これで両方の股関節が人工関節になったが、杖無しで歩けるようになれば嬉しい。そうなるにはまだ暫く家で歩く訓練をしなければならないようだ。御心配お気遣いありがとうございました。



貞久秀紀詩集『明示と暗示』と北爪満喜詩集『飛手の空、透ける街』の短い感想

Fri, 10 Sep 2010 14:54:25 +0900

 須永紀子さんの詩集『空の庭、時の径』を読んで長い感想を書いた後、続けて貞久秀紀さんの詩集『明示と暗示』と北爪満喜さんの詩集『飛手の空、透ける街』を続けて読んで短い感想を書いた。貞久秀紀さんの詩集は『現代詩手帖』に掲載された詩論「明示法について」と合わせて読んだ。この二つの感想はそれぞれ私信としてお二人に送った。一部訂正してここに掲載します。
 なお、明日9月11日からわたしは左股関節の手術のために入院します。
 
 貞久秀紀さんの詩集『明示と暗示』の短い感想
 詩論「明示法について」は大変興味深く拝読しました。事物の存在を浮き彫りにすることばの使い方として、人の主観的な認識から意識空間を解放する方法と思いました。なんか突き詰めると神秘的精神に到ることができるのかななどとも思いました。
 人は事物を視覚という知覚の対象として捉え、次いで認識の対象にして、そこから自己の価値観や記憶へと送り込むことになるのですが、その限りでは、事物と自分が互いに偶然にそこにあるという関係が忘れられてしまう。つまり「存在関係」に至れない。その「存在関係」という地平を明示法という叙述の仕方で開いたと思いました。
 詩集『明示と暗示』はその方法で、こつこつと生活の中にある木の枝とか橋とかの事物との存在関係をことばによって実現していると受け止めました。読んでいくと、詩の独特の言い回しがうつってきて、庭の花を見るとき、その言い回しを反復したりしていました。貞久さんの詩のことばの力ですね。詩としては道端の木の数を書いた「数のよろこび」と、知人の家を訪ねたところを書いた「ことばの庭」が面白く共感しました。わたしは毎日Twitterに庭の花の数を書いているのですが、書きながら貞久さんの詩と重なってくるように感じました。
 
 北爪満喜詩集『飛手の空、透ける街』の短い感想
  『飛手の空、透ける街』は読み始めたら、朗読を聞いているような感じで、その詩の語り口に引っ張られて、作者の気づきの深みに引き込まれて行きました。イメージとそのイメージが独自の意味合いで説き明かされて行くというのを楽しめました。昼の月を切り取って夜の月に貼り付けて自分を癒すというアイデアに感心していると、月の光を人や物を照らす糸として、その一本一本の光の糸で月を頂点にして具体的に人や物を繋げて行くなんていいなあと思いました。
 月とか雨の滴とか草の葉の露の雫とか、透明に輝くものに作者の気づきを映して、その深みに連れて行く語り口が綺麗にできていると思いました。ただ、わたしとしては、作者の記憶に照らして、少女の頃のこと、母親とのこと、父親のことなど、肉親との関係を読者にはもっと不明なこととして、理解しにくい言葉遣いで語られた方が、詩として力が出るのではないかとも思いました。
 詩集全体で、わたしとしてはいいなあと感じながら、ちょっと不満が残りました。朗読ということを意識しているのしょうか、ことばの流れが分かり易す過ぎるという印象でした。黙読でイメージを重ねていくことばの展開と、聞かせて、分からせて話を展開していくのとは違いがあるということを、この詩集は示していると思いました。わたしはどちらかというとイメージに頼る方なので、語りの力を感じながら不満が残ったということなのでしょう。



須永紀子詩集『空の庭、時の径』の感想をようやく書き上げた。

Tue, 31 Aug 2010 18:33:07 +0900

 実は6月から書き始めた感想なのだ。『空の庭、時の径』を著者から戴いて、一度読んでことばに緊張感があっていいなと思ったが、分からないところが幾つもあるので、それを理解しようと一つ一つの詩について書き始めたら、なかなか終わらなくなってしまった。それに、病気のせいで一日のパソコンに向かう時間が限られていたので、日にちかかってしまったというわけ。詩集『空の庭、時の径』は虚構の物語体験を通じて、詩人が自分にとっての詩というものを問い質していく12編の詩で校正された詩集だ。「<世界とはどこか>」という詩行ではじまる最初の「囲繞地にて」という作品、また2001年9月11日の「同時多発テロ」を切っ掛けに書かれたという「遠い庭」という作品などが記憶に鮮やかに残った。
 感想文はb2evolution blogにあります。
 「須永紀子詩集『空の庭、時の径』感想」



久し振りに劇団「快快(faifai)」の公演を見に行った。

Sat, 14 Aug 2010 15:49:44 +0900

 13日の夜、多摩美の加納豊美さんに誘われて、長畑さんの自動車に同乗して、池袋の東京芸術劇場に行き、その小ホール1で「東京芸術劇場プロデュース・日タイ共同制作『スパイシー サワー アンド スウィート Spicy,Sour,and Sweet』を見た。「快快(faifai)」とタイの「B-Floor」の合同公演ということで、B-Floorの新作『Flu O Less Sense』と快快(faifai)+B-Floorの『どこでもdoor』が上演された。小指値から始まった「快快(faifai)」が国際交流の上演をするようになったかと思うと感慨があった。
 最初に上演された『Flu O Less Sense』はタイの赤シャツを着た人々の街頭デモと政治家たちの写真をふんだんに使って、その前でプラスティックの皿を数十枚使ったパフォーマンスが男女数名の俳優によって演じられるものだった。タイの政治状況には無知なわたしにはそのパフォーマンスの意味合いが理解できなかった。そろって身体を動かす快感はあった。
 50分ほどでそれが終わって、休憩時間になって、壁にタイのチュラロンコン大学の教室のライブ映像が映され、演出の篠田さんがその教室の一人に話しかけて、客席の人の質問を送ったりしていたが、それもよく分からなかった。遙かな空間を越えて同じ時間を共有しているという実感がないのが残念だった。
 それから快快(faifai)+B-Floorの『どこでもdoor』の上演となった。小ホールの両脇に客席があって、真ん中が演じる場所になっていて、その隅にやや大きめのピンクの両方に開くドアが置かれて、そのドアから演技者が出たり入ったりするという動きを基本に、三人あるいは数人のグループになってパフォーマンスが行われるという展開だった。始めにひと組の男女が自転車に乗っているというマイム出できた後、本物の自転車に乗った別のひと組が現れて、ドアをくぐり抜けて、それから沢山の男女がいろいろなことをやったが、処女の女性が何とかすると雨が止むということで、実際に天井から雨を降らして次々に女優さんを濡れさせ、そこで観客の拍手をさせて、拍手が終わると、雨が止んだということで、役者たちが客席に向かって、タイ製の麦わら帽子とか団扇とかその他小物を売り歩くのだった。それを買うのには、パンフレットに挟まれていたタイのバーツの紙幣を使わなければならないのだった。そのほか、観客に簡単なヨガ体操をやらせることもあった。
 見ていて、何がどう進行しているの分からなかった。行きたいところを叫んでドアを通り抜けていたが、行きたいという動機が分からないから感じさせるものが伝わってこなかった。わたしは「快快(faifai)」の役者たちのフアンなのだが、彼らの魅力も存在感も感じられなかったのは残念だった。それでも、言葉の通じない外国人たちと演じる空間を作るのに「どこでもdoor」を考え出したというのは面白い発想だと思う。そして、叫び声と身体の動きで明るい気分の空間ができていたのは、快快の力だと思う。その一人一人の声と身体がドアを抜ける事情を分からせて欲しかった。そこで、やはり言葉で開いていく軸がほしいと思った。一緒に行った麻理さんは「いいも悪いも、学ぶところが沢山あった」と言っていた。



昨日からTwitterを始めた。

Tue, 27 Jul 2010 14:36:40 +0900

 http://twitter.com/shirouyasu_0wl
 何だかよく分からないけど、一日に一回ぐらいはつぶやけるでしょう。