Subscribe: アル中ハイマーの独り言
http://drunkard-diogenes.blogspot.com/feeds/posts/default
Added By: Feedage Forager Feedage Grade A rated
Language: Japanese
Tags:
Rate this Feed
Rating: 5 starRating: 5 starRating: 5 starRating: 5 starRating: 5 star
Rate this feed 1 starRate this feed 2 starRate this feed 3 starRate this feed 4 starRate this feed 5 star

Comments (0)

Feed Details and Statistics Feed Statistics
Preview: アル中ハイマーの独り言

アル中ハイマーの独り言



おいらは酔いどれ天の邪鬼! 頭はいつも Kernel Panic !Drunkard Diogenes = Toto's Page



Updated: 2017-11-23T13:47:09.806+09:00

 



マルチモニタに睨まれて... 四面楚歌!?

2017-11-23T13:47:09.833+09:00

モニターってやつは、向こうから一方的に光を放ち、こちらは受け身でそれを見る。だから、出力装置なのである。しかしながら、四面ともなると、こちらが見られているようで、なんとも奇妙な気分になる。恥ずかしいような...誰かがリモートで仕掛けているのか?贅沢にも一つの画面でリソース監視をやれば、お返しに四つの目線で人間監視をくらう。仮想ワークスペースを加えれば、十面以上もの影の眼で見張られる。まるでマジックミラー...それでも贅沢ってやつは恐ろしいもので、三日もすれば慣れちまい、こちらの方から、チラッと見せたくもなる。だから、こんな記事を書いているのやもしれん。ゲームをやるでなし... デイトレードをやるでなし... 贅沢な空間が心にゆとりを与え、新たな境地を開拓してくれる。いや、そうに違いない。いやいや、そんなものは幻想だ。能力が上がるわけもなく。自己投資とは、自己満足の類いか... 自己啓発とは、自己陶酔の類いか... * 左四面がメインマシン、右縦二面がサブマシン...1. メインマシンマシンにパフォーマンス不足を感じるようになり、新たなマシンを購入することに。自作する元気もなく、BTO パソコンを求めるも、断じて歳のせいではない。今まで二面のマルチモニタを使用してきたが、酔いどれ天の邪鬼の衝動は、なぜか四面にこだわってやがる。まず、スタンドタイプのモニターアームとなると、安定感を優先したい。そして、エルゴトロンのものを選択。首角度の柔軟性が乏しいが、安定性と両立させるのは、ちと酷か。モニタは大抵のものが VESA 規格準拠なので、叩き売りしているやつを四台調達し、同じ型番で揃えて、まあまあ...ケースでは静音性を求めたいが、冷却性も気になるところ。SSD にすれば、音はそれほど気にならないだろう。そして、こいつがなかなかのお気に入り... be quiet!オーディオ端子は、Optical OUT が捨てがたく、できれば、Realtek HD 対応が欲しい。すると、ちょうど ASRock のマザーボードに、Realtek ALC1220 Audio Codecs 搭載のものがあった。ASRock は、ASUS から独立した企業ということで、なんとなく選んでしまう。ところで、ASUS は今では「エイスース」と読むって、店員さんに教えてもらった。おいらは昔から「エーサス」と読んでいたので、歳がバレちまった。そして、マシン構成はこんな感じ... Mother Board : ASRock Z270 Extreme4 CPU : Intel Core i7-7700 3.6GHz Graphics Card : nVIDIA GeForce GTX 1060 3GB RAM : DDR4 16GB Strage : SSD 480GB Case : be quiet! PURE BASE 600 Monitor Arm : ERGOTRON DS100 Quad monitor 33-324-200 Monitor : PHILIPS SoftBlue 234E5EDSB/11 x42. サブマシンメインマシンを買い替えたので、今までメインだった DELL Studio XPS8100 をサブマシンへ。とはいっても、Linux を搭載し、サーバやルータの監視用にほぼフル稼働しているので、降格という意味ではない。Linux の魅力は、なんといってもハードウェア要件が緩いこと。一世代古いマシンをサブに位置づけても、メインが SM 狂なら遜色ない。十五年前の独立時に Soralis マシンを導入して、その役割を与えていたが、コストダウンで Fedora Core に乗り換え。ただ、Fedora 2X あたりからであろうか、GUI 環境の不安定さが目立つようになった。例えば、xwininfo で情報がうまく取得できなかったり、たまーに固まったり。酔いどれ天の邪鬼は、ウィンドウの位置やサイズを非常に気にするタチとき[...]



"日本教会史(上/下)" João Rodrigues 著

2017-11-12T09:48:24.176+09:00

アビラ・ヒロンの「日本王国記」にせよ、ジョアン・ロドリーゲスの「日本教会史」によせ、なにゆえローマ・カトリック教会は、こうも日本の調査報告を求めたのか。やがて訪れる植民地政策の布石か。いきなり武力制覇を目論むより、まず敵を知るという意味では孫子の兵法に適っている。極東への野望はマルコポーロの「東方見聞録」に端を発し、黄金の国ジパングの噂を耳にした野心家どもが群がる。しかし、それだけだろうか?少なくとも、日本に初めてキリスト教を伝えた聖フランシスコ・シャヴィエールは違ったようである。東洋に初めて聖福音を伝えたのが聖トメーという人物で、バラモン教徒の手にかかって殉教したと記している。これは十二使徒の一人、インドの地で殉教したと伝えられる、あの疑い深きトマスのことのようだ。聖フランシスコは、その意志を継ぎ、さらに東へと布教の旅を続ける。その過程で、悪行のために良心の呵責に苛み、薩摩から逃れてきた弥次郎と出会う。彼は心の休まる宗派を求めて西へ、西へ、ついにマラッカで聖フランシスコに救われたとさ。聖フランシスコは、日本には悪魔の宗教が蔓延ることを知り、日本へ行くことを決意する。パードレたちは悪魔が住むと聞けば、どんな土地にも赴く。しかしながら、布教の旅とは、殉教の旅を意味する。死を覚悟してまで旅を続けるのはなぜか?その使命感はどこからくるのか?聖人という自意識が、そうさせるのか?神のためにすべてを犠牲に捧げる... 洗礼を受けるとは、そういうことのようである。ただ、幸せ者に余計な信仰は不要だ。救済を求めているのは、耐え難い苦境にある人々。時代は戦乱の世、京の都が荒廃し、難民が溢れていた。藁をも掴む思いとは、こういう事を言うのであろう。重病人相手にお布施をたかる坊主たちに対して、医術の心得のあるパードレたちは無料奉仕。ボランティア精神は、キリスト教と相性がよいと見える。聖フランシスコは平戸や山口で布教活動をし、キリシタン信者の数を急激に増やしていった。だが、それらの街々がやがて迫害の舞台と化す。西洋思想に対する怨恨は徳川時代に長らく封印され、その反動として、吉田松陰をはじめとする思想改革から、維新時代に薩摩や長州を中心に爆発した、と解するのは行き過ぎであろうか...コロンブスの新大陸発見後、新世界を効率的に分割するための条約が結ばれた。トルデシリャス協定が、それである。エスパニアは西方へ、ポルトガルは東方へ、それぞれ航路を開拓するよう定め、ついに地球の裏側で衝突する。キリスト教会も一枚岩ではなく、聖ドミニコ、聖フランシスコ、聖アウグスティーニョ、イエズス会の四つの托鉢修道会が押し寄せてくる。こうした布教活動は、ローマ・カトリック教会が主導しているというよりは、各国の思惑によって展開されていく。おまけに、宗教改革の時代を迎えると、新興勢力であるイギリスやオランダが参入し、さらに政治色を強めていく。日本では、エスパニア人やポルトガル人を南蛮人と呼び、イギリス人やオランダ人を紅毛人と呼んで区別した。アビラ・ヒロンの記録によると、紅毛人が権力者に意見したためにキリシタン迫害に及んだ、というようなことが記される。南蛮人が布教活動に熱心なのは日本支配を目論んでのことで、これに激怒した秀吉は大々的[...]



"日本王国記" Bernardino de Avila Giron 著

2017-11-05T11:00:23.464+09:00

エスパニアの商人ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンが記した「日本王国記」は、16世紀半ばの三好長慶の京都占領から、下克上で台頭した織田信長や豊臣秀吉を経て、徳川家康の晩年までを物語る。本書は全編二十三章から成り、日本人の起源、風土、風俗、慣習、年月日の計算法、貨幣、度量衡、貿易、盃の儀礼、行政機構、宗教にまで及び、当時の日本人の価値観を西洋人の目から語ってくれる。同じような記録に宣教師ルイス・フロイスのものが有名であるが、こちらは一般人が記したという意味で貴重な文献と言えよう。専門家が書いたものではないので、地名や人物名など誤記が目立ち、イエズス会士ペドロ・モレホンが多くの注釈を加えている。それでも、手掛かりなしに書けるわけもなく、当時の風潮、流布などを垣間見ることができる。例えば、本能寺の政変では、秀吉は毛利側に信長の死を隠して講和したという説が一般的だが、本物語では、素直に伝えて講和したことになっており、その親厚ぶりと人間味を伝えている。秀吉英雄伝として広められたのかは知らんが、世間ではそのような噂が流布していたようである。京の三条河原で盗賊が釜ゆでになった事件でも、石川五右衛門という名をモレホンの注釈によって見ることができ、実在した人物であることが伺える。また、マニラ政府との交渉に原田喜右衛門が絡み、秀吉の誇大妄想が朝鮮出兵から明国に向けられただけでなく、フィリピンへの野望を隠さず、さらには天竺、すなわちインドに向けられていたことも匂わせる。種子島の鉄砲伝来に始まり、西洋人の日本渡来が盛んになった、いわゆるキリシタンの時代。宣教師ガスパール・ヴィレラとルイス・フロイスは信長に謁見し、布教保護の朱印状を得た。その頃、日本全国のキリシタンは3万を越え、1579年頃には約10万、1610年頃には75万にのぼったと伝えられる。信長の叡山焼き討ちに対しては、お布施で私腹を肥やす坊主どもの享楽ぶりに悪魔退治のごとく擁護する記述もある。アビラ・ヒロンは、偽りの阿弥陀や釈迦の教義、あるいは弘法大師のでたらめが教えられていると記している。坊主たちは権威や外面的な装飾と豪華さを誇り、王侯のごとく尊ばれ、なによりも偶像崇拝を導入していると。ところが、秀吉のキリスト教禁止令から運命は一変する。1597年、二十六聖人の殉教。1614年、大殉教および宣教師をマカオとマニラへ追放。家康は秀吉の禁教令を引き継いだ格好だ。本物語には、「元和の大殉教」にまで筆は及ばないが、そうなる運命を想像させる。高山右近は太閤秀吉に向かって、キリシタン宗徒の生き様を誇り高く言い放つ。キリシタンになったのは、けして気まぐれや好奇心などではない!ましてや利害関係でもなければ人生上の問題でもない!人を救うことのできる教えがあるとすれば、それは何かを問うた結果だ!坊主どもの教えすべてが悪ふざけで、偽りで、まやかしだ!さぁ、首を斬れ!... 本書の半分以上がキリシタン迫害史の様相を呈す。原題には「転訛してハポンとよばれている日本王国に関する報告」とあり、皮肉がこめられる。黄金の国ジパングと伝えたのはマルコ・ポーロの東方見聞録だという説があるが、以来、ジャパン、ジャポン、ヤポンなどと呼称され、ここでは「ハポンとは、サヨン(死刑執行人)な[...]



"ウバールの悪魔(上/下)" James Rollins 著

2017-10-29T19:29:03.108+09:00

シグマフォースシリーズは十作品を越え、もうついていけない。学生時代であれば、間違いなく追尾していたであろう。一旦、推理モノに手を出せば、かっぱえびせん状態に陥り、次の日はまず仕事にならない。おいらの読書スタイルの基本がこのジャンルであり、それが幸か不幸か...そして、のんびりとシリーズ 1 から「マギの聖骨」、「ナチの亡霊」、「ユダの覚醒」、「ロマの血脈」の順に追ってきたが、なぜか、ここでシリーズ 0 に戻る。というのも、「ウバールの悪魔」は最初に発表されながら、日本では、5番目に刊行されている。0番を加えたのは、やや苦し紛れ感があるものの、シリーズ半ばで原点の作品に立ち返ってみるのも悪くない。惚れっぽい追い手は、素直に出版順に従うのであった...原点に立ち返る意味で、シグマフォースという組織を軽くおさらいしておこう。それは、米国防総省の DARPA(国防高等研究計画局) 直属の秘密特殊部隊で、「殺しの訓練を受けた科学者」と形容される。Σ(シグマ)記号は数学では総合和を意味し、物理学、生物学、電子工学、考古学、人類学、遺伝子工学などあらゆる専門知識を融合した天才集団というわけである。もちろん架空の組織だ。ただ、DARPA は実在するし、これに相当する組織がないとは言い切れまい。ロリンズ小説の最大の魅力は、科学と歴史学を融合させる手腕にあると思う。科学は最先端の知識を重んじる立場にあり、歴史学は過去の知識を遡る立場にあり、各々が時間と空間を越えて調和してこそ、真の知識を覚醒させると言わんばかりに。しかも、古代知識の偉大さを描きながら、歴史の可能性ってやつを匂わせてやがる。現代人が流行知識に振り回される様を嘲笑うがごとく...また、あらゆる行動には緻密な分析がともない、アクションと知識、すなわち、動と静の絶妙なバランスも見逃せない。ただ奇妙なことに、動の領域に文章のオアシスを感じる。静の領域はあまりに知識が溢れ、何度も読み返して疲れ果てるのだ。無尽蔵な知識の中に放り込まれるとアクションの方に安らぎを覚え、動脈と静脈が逆流するかのような感覚に見舞われる。結果よりも原因や過程、さらには背景に重きを置き、読者にかなりの気合と体力を要請してくるのも、前戯の大好きな酔いどれには、たまらない...舞台は、大英博物館、ナビー・イムラーンの霊廟、アイユーブの霊廟、そして、シスルへ。大英博物館の功績の一つに、皮肉にも植民地時代にコレクションされた人類の遺産の保管場所になっていることが挙げられる。時の征服者たちは考古学的な発見に価値を見いだせず、破壊された事例も珍しくないが、ここに収集されれば安全管理される。本物語では、その遺産の一つが爆発した謎の物理現象が発端となる。それは、アラビア半島の東端に位置するオマーンで発掘されたナビー・イムラーンの霊廟に関するもの。アラビアで最も有名な墓は、聖書やコーランにも出てくる人物を祀っている。そう、ナビー・イムラーンとは聖母マリアの父だ。本当に、ここに眠っているのかは知らんが...暗号を解読した一向は、次にアイユーブの霊廟へと導かれる。アイユーブは旧約聖書ではヨブと言い、これまた聖書にもコーランにも出てくる人物で、神への信仰を貫いたことで知られる。そして、最後に導かれ[...]



"学問の進歩" Francis Bacon 著

2017-10-22T07:40:51.002+09:00

"scientia est potentia (知識は力なり)" との格言を残したフランシス・ベーコン。彼は人類に奉仕するために生まれてきたと信じていたようで、ルネサンス人によく見られる傾向である。万能人という特質が、そのような使命を駆り立てるのか。そして、知識の発見や知識を生かす技術に着目して学問の尊厳と価値を説き、さらには、学問の進歩のために何がなされ、また何が欠けているかを論じる。学問と知識の喜びを語り、まがいものの快楽とは違うと...
学問には、主観的で感情的な精神に、冷静な目を向けさせる役割がある。冷静さとは、ちょいと客観性を混ぜ合わること。主観をほんの少し遠慮がちにさせることができれば、自己から粗野と野蛮を取り払うことができよう。古来、哲学者たちが語ってきた... 謙遜は悪徳を知ってからでなければ身につかない... というのは本当かもれない。
「疑いもなく、学芸の忠実な履修は、品性を柔和にし、たけだけしさをなくさせる」
... オウィディウス「黒海のほとりから」

徳を知っていても、徳を身につける手段と、これを用いる方法を知らなければ、ものの役には立たない。学問が導くものはこれか。したがって、学問は、経験的で帰納法的なプロセスをとり、試行錯誤の上で省察となるであろう。
客観性へと導く論理学には、根本的な思考原理に三段論法ってやつがある。こいつは人間精神と非常に相性がよく、大前提、小前提、そして結論へと導くやり方が妙に説得力を与える。それゆえ、古くから熱病のごとく研究されてきた。おそらく論理学の王道は演繹法であろう。人間の能力だけで世界を完全に説明できるならば、演繹法だけで済むはずだ。
しかしながら、現実世界を説明するならば、帰納法に頼らざるをえない。ベーコンの学問の立場は、まさに観察や実験を重んじる帰納法的考察にある。彼は、理論傾向の強かった哲学を、実践傾向へと向かわせた。散歩するがごとく自由に試行錯誤することが、学問の真髄と言わんばかりに。
ただ、このルネサンス人をもってしても、やはり真理を語ることは難しいと見える。その証拠に、学問の進歩を語る段になるとアフォリズムを展開し、過去の偉人たちの言葉に縋る。既に真理は語り尽くされていると言うのか。いや、そうするしかなかったのだろう。学問の道は、真っ直ぐすぎてはつまらない。寄り道、回り道があってこそ道となる...
アリストテレス曰く、「わずかなことしか考慮しない人びとは、容易に意見をいえるものだ。」

尚、ここで言う説明とは、存在意義や合目的を問うことであって、最も説明の難しい手強い相手が人間精神そのものである。古来、偉大な哲学者たちは、自己を説得するために弁証法なるものを用いてきた。弁証法とは、矛盾と対峙する上で有効な弁明術とでもしておこうか。人間は、人間自身の存在意義を求め、その言い訳をしながら、学問を進歩させてきたのである。
それゆえ、学識が人を傲慢にすることもしばしば。知らない相手を小馬鹿にしたり、有識者たちの議論でさえ知識の応酬に執着したりと、結局は自己存在を自己優越に変えてしまう。人間が編み出した知識が永遠に完全になりえないとすれば、学べば学ぶほど謙虚になりそうなものだが、そうはならないのが人間の性。答えの見つからない命題があれば、いかようにも解釈できる。
そして、説明に困った挙句に登場させるのが、完全なる神の存在である。神とはなんであろう。万能の知識といえば、そうかもしれない。科学や数学といった客観的知識が、主観的知識を拒んで無神論者にさせ、今度は宇宙法則の偉大さという側面から、絶対的な存在を受け入れる。これを神と呼ぶ者もいるが、少なくとも既存の宗教が定義しているような存在ではない。
「浅はかな哲学の知識は人間の精神を無神論に傾かせるが、その道にもっと進めば、精神はふたたび宗教にたちかえるということも確実な真理であり、経験から得られる結論である。」

ベーコンは、学問に対する功績ある事業や行為には、三つあるという。それは、学問の行われる場所、学問をおさめる書物、そして、学問をするその人である。
古来、実に多くの学院や図書館が建てられてきた。学問の体系化ではアリストテレスの功績が大きく、その流れから学問分野は細分化され、多彩な専門科目を生んできた。
子供たちには、義務教育の名の下で一般教養が強要される。真の教養は強要からは導けないだろうが、知識が強要されるべき時期は必要であろう。ガリレオは言った... 人にものを教えることはできない。できることは、相手のなかにすでにある力を見いだすこと、その手助けである... と。
では、大人はどうだろう。自分自身で学ぼうとしなければ同じこと。鉄は熱いうちに打て!というが、大きな子供ほどタチが悪い...



"カルダーノ自伝 ルネサンス万能人の生涯" Gerolamo Cardano 著

2017-10-15T18:07:28.937+09:00

自伝の類いでは、聖アウグスティヌスの「告白」、マルクス・アウレリウスの「自省録」、チェッリーニの「自伝」、ルソーの「告白」などに触れてきた。人生の終わりが見えてくれば、生きてきた証のようなものを残したいと考える。それは、遺言書の類いか...
しかしながら、なかなか勇気のいることでもある。どんな醜態にも弁解がつきまとい、美化、正当化の誘惑を免れない。たとえ偉人であっても。自伝を書く前で、誠実であれ!などと命ずる者はいない。いるとしたら自分自身だ。正直に書いたとしても、下手をすれば単なる暴露本になりかねない。書くほどのものなのかと問えば、それほどの人生を送ってきたのかと問わずにはいられない。実際、彼らはこれを問い続け、ジェロラーモ・カルダーノ自身もまたアウレリウスに触発されて書くといった旨を語っている...
尚、清瀬卓、澤井繁男訳版(平凡社ライブラリー)を手に取る。

自伝を書く理由とは、なんであろう。自伝を書かずにはいられない心境とは、いかなるものであろう。そして、自伝を書く資格とは。ある作家は言った... それは、五十を過ぎてからにしなよ... と。人類の叡智という衝動が、そうさせるのか。魂が不滅だとしても、どのように不滅なのかは知らないし、それがどれほど大事な目論見なのかも知らない。ただ、読者は知っている。名誉というものが、いかに災いをもたらすかを。虚栄心とは、いわば人間の性癖の一つで、名誉欲と表裏一体。人から良く思われたいということは、人目を気にしながら生きているということ。これが、自伝を書く理由の一つでもある。もはや、ある種の依存症!あらゆる依存症は自立や自律を拒み、何よりも自由を犠牲にする。
とはいえ、生き甲斐を見つけるということは、依存できる何かを求めているということ。なによりも万人の夢みる幸福ってやつが、何かに依存している状態なのだ。人間にとって不幸のタネは二つあるという。一つは、万事は果敢なく空虚なものであるにもかかわらず、人間が手固く充実したものを追い求めようとすること。二つは、人間が知りもしないことを知っていると思い込むこと。あるいは、そうした振りをすること。
さらに、ものの考え方を変える要因は三つあるという。年齢と幸運と結婚がそれだ。なるほど、わざわざ自伝を書かずとも、人生に言い訳を求めてさまようことに変わりはなさそうだ...

1. カルダーノの業績
当時、カルダーノは医者として名声を博し、数学者、哲学者、占星術などに秀でた百科全書的な奇人。本書には賭博師ぶりが目につく。ダ・ヴィンチを友人にもつ父は法律家でありながら、数学など多くの学問に通じていたという。彼を万能人とさせたのは、父の影響が大きいようだ。ただ、カルダーノは父の研究主題について、気移りが激しいと指摘している。
カルダーノの方はというと、本業ではミラノ医師会から入会を拒否されたそうな。貧乏人が社会的地位を得るための最良の道だが、私生児という理由で拒否されたんだとか。処女作で医師たちの慣習や処方を批判し、多くの敵をつくったようである。異端の嫌疑をかけられたのも、キリストを星占いしたことに起因するらしい。結局才能が勝り、後に医師会会長になったものの。
しかしながら、カルダーノを有名にさせたのは、本業よりも数学の方であろう。まず、三次方程式の解の公式をめぐっての論争が挙げられる。この公式はニコロ・フォンタナ・タルターリアが長らく秘蔵していたが、カルダーノが公表しないと誓いを立てたので教えた。だが、カルダーノは自著でこれを公表したために、タルターリアとの間で論争となる。また、四次方程式の解を導いたのは、カルダーノの弟子ルドヴィコ・フェラーリであった。
尚、三次方程式と四次方程式の代数的解法は、偉大なる技法を意味する「アルス・マグナ」に掲載され、タルターリアの名前もきちんと記載されているとか。この書は、虚数の概念を登場させた最初の書としても知られる。デカルトが初めて虚数という用語を持ち出したとされるが、概念そのものは既にカルダーノが記述していたのである。実数と虚数の組み合わせで表される複素数の概念は、電子工学においても物理量演算で絶対に欠かせず、ずっと悩まされてきたが、いまや数値演算言語やスクリプト言語でも扱えるようになり、ちょっぴり幸せを享受している。
しかしながら、数学史においては、初めて確率論を書したことの方が評価が高い。ベキ法則や事象概念などを初めて論じたのだから、いや、イカサマ論を記述したのだから、ギャンブラー理論の先駆者と言うべき存在なのだ。尤も当時は、確率論を数学の一分野に受け入れられていなかったようである。どうやら賭け事にのめり込みやすいタイプか。尤も賭け事が好きなのではなく、引きずり込まれたと言い訳めいたことを語っているけど...

2. 苦難の宿命から天啓へ
自伝を書くなら、やはり苦難や不幸事がなければ締まらない。時代は、神聖ローマ皇帝カール5世とフランス国王フランソワ1世のイタリア支配権を巡る戦乱のさなか。おまけに、宗教改革やら、対抗宗教改革やら、異端の嵐が荒れ狂う。この時代に多くの万能人を輩出したのは偶然ではあるまい。それは、夢や幻への逃避なんぞではなく、真理を渇望した結果であろう。
カルダーノは、自身の呪われた宿命を語る。まず、母は中絶を試みて失敗したという。そして、黒死病が流行り、母はミラノからパヴィアへ移ってカルダーノを産んだと。金星と水星が太陽の下に位置し、奇形児の生まれやすい位置関係で生を授かったと。彼の不幸ぶりを列挙すると、先天的な病に後天的な病、長男の無残な死、不肖の次男、娘の不妊、そのうえ性的不能に加えて絶えざる困窮、さらに誹謗中傷や名誉毀損の奸策を被り、ひっきりなしの訴訟事件、おまけに投獄体験ときた。
カルダーノは逆境を生き抜くための術に、「天啓」という言葉を持ち出す。あらゆる学問への興味は閃きと守護霊の恩恵であり、天啓を完全なものにしようという努力であったと。好きな事とやりたい事を分けるものが、これだ。好きな事は、少々の苦難があると挫折してしまうが、本当にやりたい事は、苦難をもろともしないばかりか、底知れぬ力に変えてしまう。天才には、何か途轍もないものが取り憑くようである...
「自分の境遇を嘆く権利などない。アリストテレスの言葉を信じるならば、重大な事実について確実でしかも稀な知識を豊富に持っていることからすれば、わたしはほかの人々よりずっと恵まれていると自認している。」

3. 万能人に欠けるもの
この万能人にして、欠けているものが多すぎると告白してやがる。自分の内気な性格や気難しい両親を嘆き、友人や頼みとする家族を欠いたうえに、記憶力や身のこなしが欠落していたと。あまりにも卑屈すぎはしないか。いや、その反骨精神が万能人たる所以なのか。凡人は欠けているものを隠そうとするものだけど。
カルダーノに取り憑いた守護霊だって、理性を欠いた獣の霊と化すこともあれば、欺瞞に動かされることもある。霊魂ってやつは公然と警告してはくれない。自問している自分が答えるだけだ。
そして、社会を嘆き、人間を嫌い、自己嫌悪に陥り、反社会分子的な性格を覗かせる。この万能人には、占星術師らしい中世の神秘主義者と、その中世の価値観を否定するルネサンス人が共存するかのようである。
さらに、ラテン語の習得が遅れていたことを嘆く。この時代の文献といえば、ニュートンのプリンキピアを思わせるような整然としたラテン語で書くのが慣例であるが、自伝の原書は、俗語とも古典ラテン語ともつかぬラテン語で残されるそうで、中世ラテン語と呼ばれるとか。カルダーノは、あえて俗語的なラテン語で世に問おうとしたのだろうか...
「さて、読者諸君へのお願いが一つある。この書物をざっと飛ばし読みして、その目的が人間の束の間の栄光であると考えてもらっては困る。かえって、われわれの惨めで難儀な一生をすっぽり覆っている重苦しい暗闇を、広大な地上と天体とに比較してほしい。そうすれば、わたしが物語っていることがいくら奇跡めいているとはいっても、信じがたいことは何も含んでいないとたやすくわかってもらえるはずだ。」



"意志と表象としての世界(全三冊)" Arthur Schopenhauer 著

2017-10-08T08:35:06.916+09:00

アルトゥル・ショーペンハウアーの随筆をいくつか拾い読み、ようやく彼の大作に挑む下地ができたであろうか。実は、この大作を避けに避け、お茶を濁そうと目論んできたが、気まぐれには勝てそうにない。随筆のような形式を好むのは、本音を覗かせるところにあり、なにより著者の愚痴が聞こえてきそうなところにあるのだが、哲学書として構えられると、学識張っていてどうも近寄りがたい。プラトンの対話篇は学生時代から馴染んできたが、アリストテレスの学術書となると、手に取るまでにかなりの時間を要した。カントの三大批判書にしても、ゲーテをはじめとする文芸家や科学者たちの書で引用されているのを見かけるうちに衝動にかられ、ダンテの大叙事詩に出会えたのも、ルネサンス期を生きた美術家たちの言葉によって導かれた。そして、ショーペンハウアーはというと、西欧ペシミズムの源流とも評され、ニーチェや森鴎外などの文芸書に、はたまた、シュレーディンガーやアインシュタインなどの科学書にも、その名を見かける。ただ当時は、厭世主義、非合理主義、反動主義などとレッテルを貼られ、フェミニストからは女性の敵と叩かれ、有識者からは頽廃の哲学と非難されたようである。産業革命にはじまった合理的な生産社会は、明るい未来を想像させ、楽観主義を旺盛にさせたが、同時に、人間中心的な享楽主義によって自然への配慮を忘れさせてきた。ショーペンハウアーは、人類の浪費癖と、人間社会が自然物から乖離していく様を嘆いているが、そうした風潮は、21世紀の今日に受け継がれ、現代悲観主義を先取りしていたようにも映る。俗世間では、楽観主義を、明るい... 積極的... などの形容詞と結びつけて肯定的に捉え、悲観主義を、暗い... 消極的... などの形容詞と結びつけて否定的に捉える風潮がある。ショーペンハウアーは、これに逆らうかのように積極的な悲観論を受け入れ、自己否定論にも臆することはない。むしろ現実を直視する立場にあり、見方をちょいと変えるだけで楽観主義と悲観主義が逆さまにもなる。狂気した社会に対抗するには、世間から狂人と呼ばれる立場に自ら身を置いてみることだ!と言わんばかりに。楽観論の渦巻く暴走社会において、唯一歯止めを利かすことができるとすれば、それは悲観論にほかなるまい。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ... とはこの道か。ショーペンハウアーは、あえて世間の敵役を演じているのやもしれん...尚、西尾幹二訳版(中公クラシックス)を手に取る。ショーペンハウアーという人物は、自由ハンザ都市ダンツィヒの生まれだけあって自由を信条とし、何ものにも屈しない激しい気性の持ち主だったようである。ちょうどフランス革命の時期に生まれ、政治、経済、文化、宗教などあらゆる既成価値が崩壊していく時代。革命が急進化すれば、政敵は次々と断頭台へ送られ、恐怖政治と化す。民衆は革命派にも、保守派にも希望が持てず、もはや旧体制に戻ることすらできない。ショーペンハウアーの気性は、こうした時代を反映しているかのようである。特に、自由人は集団的性向を嫌うところがある。だからこそ、自己を徹底的に追求することができたとも言えそうか。近代的市民の自[...]



"読書について 他二篇" Arthur Schopenhauer 著

2017-10-01T12:18:23.572+09:00

ショウペンハウエルは、これで四冊目。惚れっぽい酔いどれ天の邪鬼は、暗示にかかりやすいのだ。この厭世哲学者ときたら、とことん積極的なネガティブ思考を仕掛ておきながら、奇妙なポジティブ思考へと誘なう。怖いもの見たさのような。悲観主義を徹底的に貫くと、楽観主義に辿りつくというのか。それは、楽して儲けようという人種が、そのために情報収集に努め、社会システムを駆使し、結局は勤勉になるようなものか。彼の主著「意志と表象としての世界」があまりに分厚いので、お茶を濁そうと随筆ばかりに手を出してきたが、この大作へ向かう衝動を抑えられそうにない。
ところで、障害が大きいほど燃える!というが、それは本当だろうか?愛の場合はそうかもしれん。だが、速読術は速愛術のようにはいかんよ...
尚、本書には、「思索」、「著作と文体」、「読書のついて」の三篇が収録され、斎藤忍随訳版(岩波クラシックス)を手に取る。

ショウペンハウエルは、警句箴言の大家と見える。ホラティウスやゲーテといった偉人たちの言葉を引用しては、皮肉たっぷりに余人に問う。それだけ彼が多読してきた証でもある。そして、「読書」には「思索」という言葉を対立させ、読書は思索の代用品に過ぎない!と吐き捨てる。
「読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。」
いつの時代でもハウツー本は盛況ときた。考えることを面倒臭がり、愚鈍で怠惰な人間ほど、読書は危険な行為となろう。安全な道を模索して他人の経験を犠牲にし、手っ取り早く結論に飛びつく。そして、同じ過ちを繰り返すのである。著作家もまた報酬を求めて書き始めれば、読者を欺くことになる。そんな書群が巷を騒がせば、ショウペンハウエルが愚痴るのも分かるような気がする。
しかしながら、いまや読書にも至らない時代。ちょいとググれば知識はいつでも手に入るし、知識を会得することよりも検索術の方が評価される。考える力までも仮想空間へ追いやられるとしたら、人間とはどんな存在なのだろう。なぁーに、心配はいらない。仮想空間が幻想だとすれば、魂だって、精神だって、同じことではないか。そもそも、人間存在に対して明瞭確実に説明できる哲学を、おいらは知らない。ちなみに、宗教にはよく見かけるけど...
一方で、永遠の生命が吹き込まれたような書物がある。もはや著作家の意志から独り歩きをはじめ、幽体離脱したような。自分で考え抜いた哲学だと思っていても、古典に触れているうちに、既に過去に編み出されていたことに気づかされ、がっかりすることはよくある。それでも、すぐに思い直して、それが却って心地よかったりするもので、普遍的な抽象原理にはそうした力がある。意志の継承こそ人類の叡智。この領域に、報酬や著作権などという概念はない。ちなみに、A. W. シュレーゲルの警句に、こんなものがあるそうな...
「努めて古人を読むべし。真に古人の名に値する古人を読むべし。今人の古人を語る言葉、さらに意味なし。」

ところで、「読書」というからには、本を選ぶという行為がともなう。多少なりと興味がなければ、その本を選ぶこともできない。学校教育などで強制的に読まされるのでもなければ。興味があるということは、似たような思考性向を既に持っているのでは。それは、思索のための題材に飢えているような、いわば暇つぶしに苦慮した心境とでも言おうか。類は友を呼ぶ... という言うが、本を選ぶのにも似たところがある。心を打つ言葉に出会った時、既にその言葉を受け入れる度量が具わっていたことを意味する。もし、心の準備が整っていなければ、偉大な芸術を目の前にしても何も感じることはなく、この作者はいったい何がいいたいのか?などと最低な感想をもらすのがオチだ。寂しがり屋は、そこに共感めいたものを期待し、本を漁っては立ち読みを繰り返す...
「良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがある。」

思索の段階では、言葉を探そうとする行為がある。もやもやした思考の中から具体的な言葉を発見した瞬間、思考から真剣さが失せ信仰の段階へ。多読に費やす勤勉な人ほど次第に自分でものを考える力を失っていく。これが、大多数の学者の実状だと指摘している。
思索は主観性の領域にとどまり、知識を獲得すると客観性の領域へと引き出される。思考中は、衝動的なつながりと気分的なつながりを感じながら悶え苦しむことになるが、それでもある種の快感を得ることはできよう。ドMなら尚更だ。それは、酔いどれ天の邪鬼が最も崇拝している「崇高な気まぐれ」を実践している状態とでもしておこうか。
そして、ショウペンハウエルの読書に対する態度を、勝手にこう解釈するのであった... 自己知識に対して常に、カント的な批判的態度とヘーゲル的な懐疑的態度を見失いわないこと。そして、最も純粋な哲学、すなわち思索の最も基本的な態度は、自問であるということ... と。ちなみに、ショウペンハウエル自身は、ヘーゲル学派を毛嫌いしているようだけど...
「数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であればすぐれた効果をおさめるが、知識のばあいも事情はまったく同様である。いかに多量にかき集めても、自分で考えぬいた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考えぬいた知識であればその価値ははるかに高い。」



"自殺について 他四篇" Arthur Schopenhauer 著

2017-09-24T14:47:19.579+09:00

「やがて老齢と経験とが、手をたずさえて、死へと導いてゆく。そのとき悟らされるのだ、- あのように長いあのように苦しかった精神であったのに、自分の生涯はみんな間違っていたのだ、と。」
... ゲーテ「詩と真実」より

アルトゥル・ショウペンハウエルは、これで三冊目。さらに、まだ手を付けていない数冊が目の前に積んである。惚れっぽい酔いどれは、どうやら嵌ってしまったようだ...
彼に言わせると、人生とは、こういうものらしい。
「裏切られた希望、挫折させられた目論見、それと気づいたときには遅すぎる過ちの連続...」
さすが、西欧ペシミズム(悲観主義)の源流と評されるだけあって、ネガティブ思考を徹底的に追求してクタクタにさせた挙句に、ポジティブ思考へ誘なおうってか...
尚、本書には、「我々の真実の本質は死によって破壊せられえないものであるという教説によせて」、「現存在の虚無性に関する教説によせる補遺」、「世界の苦悩に関する教説によせる補遺」、「自殺について」、「生きんとする意志の肯定と否定に関する教説によせる補遺」の五篇が収録され、斎藤信治訳版(岩波文庫)を手に取る。

人類が編み出した言語体系には、存在を強烈に意識させる動詞が具わっている。英語の be 動詞やドイツ語の sein 動詞の類いが、それだ。日本語では真実を語る時、ある!ある!と語尾を強める。存在意識は、極めて経験的でありながら、最も自然に発する観念と言えよう。それは、まずもって自己を意識することから始まり、他との比較から徐々に自分自身の状態を把握していき、やがて自我を確立させていく。なにより苦難を感じるということが、自己を意識している証なのだ。他との相対的な関係からでしか自己存在を認識できないとすれば、人間が自己中心的であるのも当然である。死という得たいの知れないものが近づけば、生に対して未練がましくもなる。
そこで、しばしば卓越した知性の持ち主が荒唐無稽の観念に憑かれ、とても消化できそうにない不合理に絶えず悩まされる。死後も魂は生き続けるという、あの観念に。だが気をつけた方がいい。魂の不死を受け入れれば、心霊と肉体を対立させ、ついに肉体の存続を悪として攻め立てることになる。自我が重荷となると、今度は集団の中に安住の地を求め、やがて奴隷根性が染み付いていく。魂の棲家は、有益な誤謬ほど居心地が良いと見える。いずれにせよ、人間は生涯ド M な存在というわけか。自立の道は険しい。自由の道は果てしなく遠い...
「だから真理の代用品などというものはあぶなっかしいものだ。」

自殺を罪悪とする宗教があれば、自殺を美学とする文化がある。ストア派哲学にも、高貴な英雄伝説として語り継がれるものを見かける。その代表格がセネカのものだ。終わりがあってはならないという愚かな希望... 自己という有機的存在が実は無意味であったという絶望... そんなことは、現実社会で十分過ぎるほど体験してきたはず。まったく無力であったことを。
にもかかわらず、無の恐怖に駆られて自虐の門を叩く。人間の怖いもの見たさというのも、困ったものだ。生が夢まぼろしであるなら、死はその目覚めということか。人生とは、死から融通してきた借金のようなものか。睡眠とは、その借金から日毎に取り立てられる利息のようなものか。人はみな、自分の人生に価値を求めずにはいられない。でなければ、自己を否定することになる。しかしながら、そんなこだわりから解放されてこそ、真に意志を目覚めさせるのであろう。それが自由意志ってやつか...
現代社会では死はどこまでも否定的なものとされるが、死にも積極的な面はある。意志の継承が、それだ。輪廻では、霊魂がそっくりそのまま別の肉体に乗り移るとされる。しかるに再生では、個体の解体と再建によって意志だけが継続されることになる。新しい存続の形体は、さらに新しい知性を獲得していくことだろう。生きんとする意志が自己を肯定し、自己に教説を与えていくことだろう。知性は意志の源泉となり、意志は世代を越えて受け継がれる。まさに永劫回帰の道よ...
「知性は救済の原理であり、意志は束縛の原理である。」

ところで、個体が不滅となれば、死を恐れる理由はなくなるだろうか?自己存在という幻想を滅却すれば、無に帰することが出来るだろうか?いや、わざわざ無に帰せずとも、記憶を抹殺すれば同じこと。あらゆる悩みは記憶から生じる。知性の喪失とは、ほかならぬ意志の忘却ではないか。永遠の克服が忘却にあるとすれば、アル中ハイマー病患者にも希望が持てる。神の合目的を解し、あらゆるものに存在意義を与えようとは、なんとおこがましいことか...
人生とは、どうせ思い込みの中をさまよっているようなもの。この能力は、神にも及ぶまい。神は何をやり直したいのかは知らんが、常に新しい生命体をこしらえ続ける。まったく気まぐれな完全主義者にも困ったものよ。破壊と創造こそが永遠のサイクル、やり直しは永遠なり、そのために宇宙は神の実験室であり続ける...



"知性について 他四篇" Arthur Schopenhauer 著

2017-09-18T08:56:18.224+09:00

アルトゥル・ショーペンハウアーは、「幸福について」に続いて二冊目。惚れっぽい酔いどれ天の邪鬼は、またもや嵌りそうな予感...
彼は、西欧ペシミズム(悲観主義)の源流と評されるだけあって、ここでも積極的なネガティブ思考を要請してくる。いや、皮肉屋の愚痴か。悲観主義に皮肉が混じると、奇妙なポジティブ思考へいざなう。「常に多くを学び加えつつ年老いん」とは、ソロンの言葉であったか...
尚、本書には、「哲学とその方法について」、「論理学と弁証法の余論」、「知性について」、「物自体と現象との対立に関する二三の考察」、「汎神論について」の五篇が収録され、細谷貞雄訳版(岩波文庫)を手に取る。

知識をいくら詰め込んでも、知性豊かになれるわけではない。ただ、知識なくして、知性は育まれそうにない。知識は極めて客観性に近い領域にあるが、知性は、これを解釈し、理解することによって身につけていくので、極めて主観性に近い領域にあるということになる。本来、知性とは、自己を客観的な脳髄として現象化するもののはずだが...
それ故に、知性は暴走しやすいということも言えよう。歴史を振り返れば、実に多くの社会的暴走が有識者たちによって扇動されてきた。大衆は、彼らの言葉を自分の意志と解して同調する。思考しない者が思考しているつもりで同調している状態ほど、扇動者にとって都合のよいものはない。下手に知識があるために判断を誤るということはよくあることだが、それもまた主観が介在した結果である。
知性には自由意志がともなう。従って、真理の探求者は、常に自分の意志にも疑いを持つことになろうし、要請されるは、意志に奉仕する知性とでもしておこうか...
「哲学するために最初に求められる二つの要件は、第一に、心にかかるいかなる問いをも率直に問いただす勇気をもつということである。そして第二は、自明の理と思われるすべてのことを、あらためてはっきりと意識し、そうすることによってそれを問題としてつかみ直すということである。最後にまた、本格的に哲学するためには、精神が本当の閑暇をもっていなくてはならない。」

自由を謳歌するということは、自分の意志を弄ぶということであろうか。自分の居場所を自己の中にどっしりと構え、自然と戯れるがごとく意志を貫く。春風駘蕩とは、こうした奥義を言うのやもしれん...
しかしながら、凡人は集団の中に居場所を求めてやまない。孤独を寂しいものとして忌み嫌い、いびつな仲間意識を助長させ、自立や自律を妨げる。儀礼的な態度に徹しては、ひたすらグループに属すことを生き甲斐とし、奴隷根性が染み付いていく。いくら哲学書を読み漁っても、哲学者にはなれない。いくら芸術作品に触れても、芸術家にはなれない。自由を謳歌できる者は、詩人のごとく天賦にしてはじめて成しうるということか...
「自分の知性をいくらかでも純粋に客観的に使用できる人々の間の対話は、その内容がどんなに軽いものであっても、そしてただの洒落におわるようなものであっても、ともかくもすでに、精神的な力の自由な遊びになっているので、ほかの連中の対話にくらべれば、歩行に対する舞踏のような感を与える。」

1. 知性は、本当に形而上学に属すのか?
「知識欲は、普遍的なものへ向かうときには学究心と呼ばれ、個別的なものへ向かうときには好奇心と呼ばれる。」
人間の知識の限界は、例えば、ユークリッド原論が公理と公準という形で示してくれる。それは、これ以上、証明できない自明な原理に支配されるということ。カントは、認識論においてア・プリオリな概念を導入した。それは、時間と空間という直観的存在が、どんな認識原理よりも先立って認識されるということ。プラトンは、イデアという精神の原型なる存在を唱えた。だが、文明人の魂に原型を垣間見ることはできそうにない。
人間の知識は、こうした素なる存在から派生した認識能力によって組み立てられる。その素なる存在は、まさに説明不可能なものとして君臨しているわけで、ここに形而上学の本分がある。その過程では、まず身近な事象を具体的に知覚し、やがて抽象的に捉えようという意識へ変化していく。個別的な意識から普遍的な意識への昇華とでも言おうか。
客観的に説明できないものが存在すれば、もはや主観に頼るしかない。不可知なものを主観で語るということは、独り善がりな議論ともなり、知性は極めて経験的となる。ショーペンハウアーは、哲学が対象とするところは経験であるとし、その意味で、こうも言っている。
「知性は形而下的であって、形而上的ではない、と言うこともできよう。」

2. 合理主義と照明主義
あらゆる時代の自然哲学は、合理主義と照明主義の狭間で揺れ動いてきた。時には、カント式批判原理によって、時には、ヘーゲル流弁証法によって。人間の解釈能力は、恐るべきものがある。なにしろ普遍的な真理を、俗的で特殊な真理もどきに変えてしまうのだから。どうやっても答えの見つからない事象と対峙すれば、客観性を崇める者は懐疑主義や批判主義に走り、主観性を崇める者は宗教に魂を売る。精神を語ろうとすれば、合理主義から逸脱し、超越的な仮説の領域に踏み込む。
だが、宇宙の本質を知らぬ人間どもが精神の本質を語れるはずもなく、形而上学は信仰の領域に踏み込まざるをえない。ならば、何事にも批判的な態度で立ち向かうことにも、ある程度の合理性を見出すことはできよう。実際、議会における野党のごとく、ただ批判するだけでも、ある種の真理を含んでいることもある。たまには...
ショーペンハウアーは、単に利口なだけなら懐疑家の資格にはなろうが、哲学者の資格にはならない、と言っている。凡庸な、いや凡庸未満の酔いどれ天の邪鬼に与えられる資格とは、皮肉屋になって自己陶酔することぐらい。そして、おいらの耳に、この言葉が嫌みに聞こえる...
「とのような時にせよ、異を立てようという気になるな。無知の人々と争えば、賢者も無知に沈むのだから。」... ゲーテ「西東詩集」箴言の書二七番

3. 時間と空間の観念性
カントが唱えた「時間の観念性」は、既に力学で説かれた「慣性の法則」の中に含まれているという。時間は物理量というより、認識主観から発現するものであると。時間の観念性については、古代の哲学者たちも仄めかしてきた。プラトンは「時間は、永遠の動く影」と表現し、スコラ学派は「永遠性は時間の終わりなき継続ではなく、恒常の今である」と言明し、スピノザは率直に「時間は事物の状態ではなく、思惟の様態にすぎない」と語ったとか。この酔いどれ天の邪鬼ですら... 時間は認識の産物に過ぎない!... といったことは言えるのである。永遠性は、その性質上、時間の反対ということもできよう。ショーペンハウアーは、こう言っている。
「永遠が存在しなければ、時間もありえない。いな、われわれの知性が時間を生じうるのは、われわれ自身が永遠の中に立っているからにほかならない。」
時間の観念性が自己存在を想定する上で重要であることは明らかだ。ただ、もう一つ重要な概念に空間の観念性がある。おそらく空間を想定せずに、あらゆる存在を認識することはできまい。もちろん、それがユークリッド空間である必要はない。脳内に構築できる想像可能な思考の次元空間であれば、なんでもありだ。そして、あらゆる事象に対する認識は、時間と空間に支えられた副次的な偶有的な現象にすぎない、ということは言えそうである。
では、空虚とはどんな空間あろうか?時間の観念を失うだけなら精神病患者に見て取れるが、空間の観念をも失えば、もはや人間ではなくなるのだろうか?
ところで、人間の本質的に具わるもの、根源的な思考をもたらすもの、それは意志の存在だという。空間と時間の次にくる観念性は意志ということか。ならば、意志の解放こそが、哲学に求められる資質ということになりそうだ。直観的な認識から知識を汲み取り、自然、世界、人生を直視し、自己の思想原典としていく。それが、自己実現ってやつか。自然と現実は、けして欺かない。無知を自覚してはじめて自然の導きに素直に応じることができる。子供が最も素朴な哲学者!と言われる所以だ。しかしながら、大人になればなるほど知識は歪められ、自ら道化を演じてやがる...

「われわれ自然の道化どもが
 われわれの心には及びえぬ思想で
 かくも怖ろしくわが身をゆさぶる」... シェークスピア



"幸福について - 人生論" Arthur Schopenhauer 著

2017-09-23T20:03:35.605+09:00

「総じて賢者というものは、いつの時代の賢者でも、結局同じことを言ってきたのであり、愚者すなわち数知れぬ有象無象どもは、いつの時代にも一つのこと、つまりその逆をおこなってきたのだが、こいつは今後といえども変るまい。だからヴォルテールは言っている、『われわれはこの世をみまかるときも、この世に生れて日の目を仰いだときと同じく、愚かで悪党であることだろう』と。」本書は「処世術箴言」の全訳で、「幸福について」という邦題は原題には見当たらない。このタイトルにやや違和感があり、また照れ臭さを感じるのは... いや胡散臭さか... いずれにせよ精神が腐っている証であろう。悪魔に魂を売り、おまけに酔いどれとくれば、それだけで愉快になれる。だから天の邪鬼なのだ。人生を論じれば、いかに楽しく、いかに幸せに過ごすか、という技術に囚われる。その意味で、人生論とは幸福の指針ということになる。では、幸福とはなんであろう。これを冷静に客観的に捉えることは至難の業。強いて言えば、生きていないよりはまし!と言えるような人生にすることぐらい。あのお笑い芸人が言った... 生きてるだけで丸儲け!... とは、なかなかの真理をついている。現実をすべて受け入れれば、絶望論や悲観論を避けられない。それは、欲望と表裏一体に存在する情念を刺激する。こうした性向は、極めてネガティブ思考と相性がよく、精神と完全に融合してしまうと厄介だ。「幸福は人間の一大迷妄である。蜃気楼である。が、そうは悟れないものである...」そこで、この厭世哲学者は、悟れない人間を悟れないままに、幸せの夢を追わせたままに、救済しようというのである。それゆえ、すべての事物を諷刺とユーモアで語ることになり、著名人たちの俚諺、格言、詩文が皮肉めいた金言となって鏤められる。これら一大哲理の背後に、ペロリと舌を出す爺っちゃまの顔を想像せずにはいられない。厭世哲学者という皮肉屋の。人生論とは人生喜劇!なぁーんだ、ポジティブじゃねぇか...尚、橋本文夫訳版(新潮文庫)を手に取る。ところで、積極的と消極的、ポジティブ思考とネガティブ思考、これらの組み合わせで四つのパターンができる。積極的なポジティブ思考は無防備な陽気に行動を委ね、消極的なネガティブ思考は敗北主義的な態度で無条件の信仰へと誘なう。消極的なポジティブ思考は慎重すぎる上で行動を定義し、積極的なネガティブ思考は悪魔性を問い詰めた上で信念を切り開く。どれを選択するかはお好み次第、その時々の精神状態によっても違ってくる。差し詰め、手っ取り早く幸福に浸りたければ、前の二つであろう。後ろの二つには少々困難がつきまとうが、中庸の哲学を実践するにはこの道しかあるまい。西欧ペシミズム(悲観主義)の源流と評されるアルトゥール・ショーペンハウアーは、積極的なネガティブ思考を要請してくる。そして、アリストテレスが表明した「賢者は快楽を求めず、苦痛なきを求める」という命題こそが、処世哲学の最高原則だとしている。処世術の詩人ホラティウスは、こう歌ったとか...「中庸の美徳を愛する者は 貧困の汚れに染ま[...]



"自然学" アリストテレス 著

2017-09-03T19:33:33.788+09:00

天文学がまだ占星術の域を脱せず、ピュタゴラス教団が無理数の存在を隠蔽していた時代、科学的な知的探求は「自然哲学」と呼ばれた。「科学」という用語が広く認知されるようになったのは十七世紀頃、科学革命の時代になってからである。知るには、まず観ること!ここに思考の原点がある。学ぶためには知識が前提され、この受動的な思考活動の蓄積が、やがて能動的な思考活動へと昇華させる。自由意志の覚醒とでも言おうか。観測の歴史は、実に古い。古代人が天体観測に憑かれたのは、地上の投影に思いを馳せたからであろうか。そこには自分自身を知りたいという願望を覗かせる。つまり、人類は永遠に自己を知り得ない存在ということか。そして、本格的な観測活動が始まったのは、天体望遠鏡が進化を遂げたガリレオの時代になってからのこと。観る精度が上がれば、知識はより確かなものとなる。しかしながら、人間ってやつは、近代科学をもってしても流言に惑わされ続け、アリストテレスの迷信の時代とそれほど変わりはないようだ。本書は、観測的な根拠がないにもかかわらず、ひたすら直観によって導かれる宇宙論の醍醐味を魅せつける。その根源的な思考原理は、人類が発明した論理学の偉大さとでもしておこうか。弁証法的な方法論の萌芽を見ているような... それは、カントやヘーゲルより二千年も昔のことである。尚、出隆 + 岩崎允胤訳版(岩波書店)を手に取る。「自然学」は全八巻で構成され、古くは「自然学講義」と呼称されたアリストテレスの講義集だったそうな。書として成立した時期も巻によって違うようで、七巻まではプラトンの学園「アカデメイア」にいた頃のものとされるらしい。すなわち、「リュケイオン」の設立前である。そのためか?プラトンへの批判はかなり遠慮がちで、相違点を軽く指摘している程度。イデア論に対する独自の見解を示しながらも、「われわれプラトン主義者は...」という記述もある。議論は反駁の形で展開されるが、相手はレウキッポスやデモクリトスが唱えた原子論。これは徹底的な機械論を唱える立場で、愛や理性といったものまで否定したようである。対してプラトンは、イデアという万物の原型のような存在を中心に据えた観念論を展開した。アリストテレスは、イデア論を批判する唯物論的な立場にあるので、むしろ機械論の方が相性が良さそうに見えるが、観念的な存在まで否定する気にはなれなかったと見える。プラトンやアリストテレスは、自然哲学が無味乾燥となっていく様を嘆き、観念論へ引き戻そうとしたのだろうか。プラトンは、真の知識は超越的で恒常的なイデアを対象とする哲学と、これに準ずる数学のみとし、現実的な物理現象を軽視した。これに対して、アリストテレスは、もっと現実を見よ!としたのである。プラトンが普遍性を重んじ、アリストテレスが多様性を重んじたと解するのは、ちとやり過ぎであろうが、前者が理想主義者で、後者が現実主義者という見方はできそうか。冷徹なほどに虚無をまとった形而上学と、崇高なほどに成熟した科学は、よほど相性が良いと見える...[...]



"神曲 天国篇" Dante Alighieri 著

2017-08-27T12:07:21.629+09:00

「神曲」は、地獄篇の三十四歌、煉獄篇の三十三歌、天獄篇の三十三歌、その合計百歌から成る壮大な叙事詩である。この大作が、実に多くの芸術作品でモチーフにされ、様々な分野の書で引用されるのに出会う度に、いつか挑戦してみたいと思い... 思い続け... そして二十年が過ぎた。ようやく至高天に登りつめたという次第である。しかしながら、理性の世界は肩が凝る。酔いどれ天の邪鬼には、地獄の方が居心地が良さそう。天使と小悪魔の違いも、よう分からんし...時は西暦1300年、大赦の年の復活祭。ダンテは一週間に渡って、地獄、煉獄、天国をめぐる旅をする。地獄と煉獄の案内人は、古代ローマの大詩人ウェルギリウス。ダンテは、この人物をライバル視したか。天国の案内人は、代わって久遠の女性ベアトリーチェ。かつてダンテが恋するも、他人の妻となって夭死した少女の聖霊で、いまだ未練があると見える。そしてついに、天国の最高位「至高天」に達した時、新たな案内人が現れる。熱烈なマリア崇拝者として聞こえる老翁、聖ベルナールである。ダンテを救うために遣わされた案内人たちは、天界の女王たる聖母マリアの意志であったとさ...地獄の深い谷を堕ちていくには、肉体の重みに身を委ね、煉獄の険しい山を登るには、肉体の罪がそのまま重石となる。そして、天国へ昇天するには、肉体をまとっていては重力に打ち勝てない。知への渇望が、身を軽くするのか。認識を司る五感を放棄すれば、苦痛を感じずに済むのか。脂ぎった欲望から脂肪分を落としきったら、自由になれるのか。天国では、魂どもがマリアを囲んで、バッハのカンタータ風にラブシーンまがいの唄で交わる。まるで女王蜂!どうりで女性はみな聖母に焦がれて、体重計の御前で存在の軽さを演じようと躍起なわけだ...尚、平川裕弘訳(河出文庫)版を手に取る。フィレンツェから永久追放を喰らったダンテの怨みは、天国に至ってもなお、おさまりそうにない。十三世紀、商業都市フィレンツェはヴェネツイアと並んで最も繁栄した都市国家の一つ。イタリアでは、「コムーネ」と呼ばれる共同体の間で抗争が続いていた。世界を支配すべき王者は誰か?それはローマ法王だとする法王党と、神聖ローマ帝国だとする皇帝党とに分裂し、法王党は、さらに白党と黒党とに分裂する。なぜ、正義の復讐が正義によって報復を受けるのか?ダンテは、こうした様を嘆いては、フィレンツェを呪い、ヴァチカンを呪うのである。おまけに、貨幣贋造などの悪徳商法が蔓延り、商売人魂に敏感なだけに憎しみも倍増。しかしながら、目が開けられないほど眩い光景が眼前に広がれば、魂に安らぎをもたらす。地獄を見る資格とは、煉獄を見る資格とは、はたまた、天国を見る資格とは、どういう境地を言うのか。俗界の悪意から追放された者の特権だというのか。愛は障害があるほど燃える!というが、天国もまたそうなのか。愛が最高善だというなら、なにゆえ愛に溺れる者を罰する。ダンテは、人性と神性の境界をさまよい、実存の本質を探求し、形相なき存在への昇華を夢見る。それが[...]



"神曲 煉獄篇" Dante Alighieri 著

2017-08-20T18:24:48.588+09:00

人生の道なかば、ダンテは古代ローマの大詩人ウェルギリウスの導きを得て、地獄、煉獄、天国をめぐる。そしてちょうど、24時間の地獄めぐりを終え、大海の島に出たところ。目前にそびえるは煉獄の山、天国行きを約束された亡者たちが現世の罪を浄める場である。山頂には永遠の淑女ベアトリーチェが待つ地上の楽園があり、二人はこれを目指して登り始める。待ち受けるは七つの環道。それは、煉獄山を取り巻く幅が三身長ほどの道で、「七つの大罪」を克服するための道だ。ダンテは、これらの関門を乗り越えない限り、自分自身を救えないことを知っている。理性なんてものは、自分の罪を認められるような境地に達しなければ、けして身に纏えないということか。自分の理性に自信を持つようでは、けして!どうりで、酔いどれ天の邪鬼には縁がないわけだ...尚、平川裕弘訳(河出文庫)版を手に取る。地獄には希望なんてものがない。だが、煉獄には希望めいたものがある。だから、余計に地獄なのかもしれない。人間は、どんな罪でも自己の中で正当化でき、自己完結してしまう性癖の持ち主で、正義は常に自分にあると信じられる幸せな存在である。地獄では、その言い訳が俗悪人の愚痴で片付けられる。たとえ自分の罪を認めたとしても、誰も構っちゃくれない。一方、煉獄では、言い訳を優しく包み込み、罪を認める手助けをしてくれる。地獄篇で、永劫の罪に苦しむ無残な魂を強く刻んでおきながら、煉獄篇となると、羞恥や後悔といった情念を控え目な誇りのうちに導いてくれるのだ。そして、地上の楽園に到達すると、そよ風に頬をなぶられながら、爽やかに草原を逍遥する。それが、逍遥派として知られるリュケイオンの学徒たちのことを指すのかは知らんが、師のアリストテレスも、その師のプラトンも、身体を地獄篇に晒していた。ダンテは、煉獄に来てもなおフィレンツェを呪い続ける。神におべんちゃらを使ってなんになる!と言わんばかりに...三位一体の神が司る無限の道を、人間の理性なんぞで行き尽くせるなどと信じるは、狂気の沙汰。本当に、マリアはイエスをお生みになる必要があったのか?わざわざ死後の世界に克服の場を用意しなくても、現世に体現されているではないか。道徳心を操ることに優れた者ほど悪徳が巧みで、正義で武装する者ほど叩けば埃が出る。自由意志を解放したければ、まず何に隷属しているか、何に依存しているかを承知すること。それは、欲望にほかならない。なぜ悪徳を行なうかを承知すること。それは、欲望にほかならない。人間なんぞに欲望を完全に排除することなどできようか。それこそ人間ではなくなる。養分を取る必要のない煉獄の魂となってもなお、痩せ細るとはどういうわけか?五体を脱ぎ捨てても自由は得られない。だから人間なのだ。有限界の存在が、無限界に魂を売るのは危険である。血を捧げるだけでは足りない。肉体の罪は焼き払えばいいが、魂の罪は永遠だ。七つの大罪は、身体の限界からくる可能智によって認識される。それは、高慢、嫉妬、憤怒、怠惰[...]



"神曲 地獄篇" Dante Alighieri 著

2017-08-22T16:21:53.522+09:00

ダンテの大作がモチーフにされるのを見かける度に、いつか挑戦してみたいと思い... 思い続け... 二十年は過ぎたであろうか。美術や音楽の題材で見かけるだけでなく、科学書や数学書、あるいは哲学書でもよく引用され、こいつが文学史屈指の傑作であることは想像に易い。しかしそれは、西洋ないしキリスト教圏における評判であって、イスラム世界では悪魔の書のごとく扱われよう。たとえ善良であっても、キリスト教の洗礼を受けなかったというだけで地獄へ落とされる。キリスト教がまだ成立していない時代の人々だって容赦しない。真理を追求した自然哲学者たちも、信仰心が薄いとして地獄の生贄に...そこには、自然学を唱えたアリストテレスや世界市民思想を唱えたディオゲネス、あるいは、ユークリッドやプトレマイオスやヒポクラテス、さらには、道徳家のキケロやセネカの姿を見つけることができ、おまけに、ダンテの師ブルネット・ラティーノも徘徊している。一方、ダンテ自身はというと、生前訪れた傍観者、最もずるい立場!この場所では、小難しい説教を垂れても無駄だ。暗黒界に幽閉された人々は、せめてダンテに愚痴や言い訳を聞いてもらえれば、本望というわけか。アーメン!生きている間は生きている者同士で騒ぎ、死んだら死んだ者同士で静かに語り合い、生きている者どもに静寂を邪魔されたくないものだ。ジョン・スローンは言った... 死んだ人の悪口を言うのはよくない、生きているうちにせいぜいこきおろしておこう... と。尚、平川裕弘訳(河出文庫)版を手に取る。人生の道なかば、三十五歳のダンテは、古代ローマの大詩人ウェルギリウスの導きを得て、地獄、煉獄、天国をめぐる旅に出る。「神曲」は、地獄篇、連獄篇、天国篇の三部で構成され、まずは地獄めぐりから始めよう...ダンテはフィレンツェ生まれだが、ここに登場するフィレンツェ市の要人たちへの仕打ちは凄まじい。というのも、彼は政変に巻き込まれて祖国から永久追放され、生涯に渡って放浪生活を送った。フィレンツェを呪ったのか。誰でも気軽にくぐれる門戸を開き、怖いもの見たさの衝動に駆られた者どもを誘惑しようってか。この物語は、復讐劇なのか。ダンテが語る道徳観や倫理観は、極めて自己中心的である。いや、自己陶酔論と言うべきか。永劫の呵責を受けた亡者たちも負けじと、ことごとく自意識のオンパレード。だから、地獄なのかもしれない。暗黒界が盲目な者どもの世界だとすれば、それは現世と何が違うというのか。芥川龍之介は言った... 人生は地獄よりも地獄的である... と。宗教の本質は、寛容さにある。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、同じ預言者アブラハムに導かれた、いわば兄弟の徒で、アブラハムの宗教と呼ばれる。なのに、親兄弟による骨肉の争いは加熱の一方。エントロピーの力は偉大と見える。血が濃いほど、熱湯消毒が必要ってか。宗教の不寛容さは、まず論理の整合性を求めるところに現れる。そうでなければ、庶民を説得できないのだから。だが、論理は緻密であ[...]



"囚人のジレンマ - フォン・ノイマンとゲームの理論" William Poundstone 著

2017-08-11T08:11:49.600+09:00

数学者アルバート・タッカーが考案した「囚人のジレンマ」は、非協力ゲームにおける、ある均衡状態をよく説明している。それは、合理的な個人の集まりであっても、互いに望ましくない選択をしてしまうというもの。しばしばナッシュ均衡の一例として取り上げられ、ゲーム理論の基礎概念を与えている。ゲームの醍醐味といえば、際どい選択に迫られるスリリング。どんなに緻密に計算された戦略でも、想定外はつきもので、結局は直感が頼り。これを快感とするかストレスとするかは、プレイヤー次第だ。気まぐれや行き当たりばったりですら、合理的な行動として定義することができれば、数学は人間を凌駕するであろう。そして、ゲーム理論が人間を研究対象とし、マッドサイエンスとなるのかは知らん...本書は、ゲーム理論の発展にフォン・ノイマンの半生を重ねた物語である。フォン・ノイマンの功績といえば、プログラム内蔵方式と二進法の論理式で構成されるコンピュータの開発であろう。現在、コンピュータと名のつくものは全てノイマン型と呼ばれ、これ以外のアーキテクチャをおいらは知らない。彼はコンピュータの合理化を目指して人間の脳を研究した挙句、自己増殖するオートマトン理論へと導かれた。コンピュータ科学の巨匠アラン・チューリングもまた、暗号機「エニグマ」と対峙する中で、マシンに対抗できるものはマシンしかない!との信念から自らマシンを完成させた。しかしながら、自己増殖や自己解決の道には、常に矛盾がつきまとう。その矛盾は、時には自己循環に陥れ、時には自己破壊を強いる。残念なことに、懸念もまた自己増殖するのだ。人間が自己言及を試みるものは、すべてこの罠にかかる。ゲーデルの不完全性定理は、すべての論理的問題が公理化によって解決できるわけではないと言っている。アインシュタインやゲーデルがいるプリンストン大学でフォン・ノイマンは伝説となった。これは、同僚たちが語ったジョークだそうな。「フォン・ノイマンは人間ではない。人間について詳しく研究し、人間を完全に真似ることができた半神半人だ。」そして、20世紀最大の天才は、20世紀最大の悲観主義者となり、物悲しい調子で人生を終える。矛盾とジレンマは、よほど相性がよいと見える。天才の人生とは、板挟みの物語であったか...ナッシュ均衡のような状態を想定することは、それほど難しくはない。例えば、あらゆる外交交渉は、この均衡点の模索と言っていいだろう。フォン・ノイマンは、マンハッタン計画に参加し、ランド研究所にも関わり、核兵器開発に大きな役割を果たした人物の一人。崇高な科学ほど悲しい運命を強いられる。それは、まずもって人間を抹殺するための道具に応用されることだ。これに加担させられた科学者は、概して平和論を唱えることに。本書は、軍拡競争における核の抑止力という視点からのジレンマを物語る。ここでの対立とは、正しさを競うゲームだ。正しさを争うことが正しいとするなら、既に循環論に陥っている[...]



"選挙のパラドクス - なぜあの人が選ばれるのか?" William Poundstone 著

2017-07-30T08:11:41.659+09:00

政治の在り方を問うたアリストテレスは、最善なのは君主制で、次に貴族制で、最悪なのは民主制というようなことを書いた。しかし、真の君主はどこにも見当たらず、ことごとく僭主と化す。有識者や有徳者の集団ですら権力を握ると、そうなるものらしい。今日、様々な政治体制が試されてきた中で、民主制が比較的マシとされる。そして、その実践法の代表とされるのが選挙だ。これに勝利した者だけが決定を下した事に正当性を与え、行政を機能させうる。だが、貧困国では、西洋式民主主義を押すつける時に真っ先に導入され、腐敗選挙や恐怖選挙が横行する始末。ある経済学者はデモクラシーならぬデモクレイジーと呼んだ。民主主義は世界で一定の地位を獲得し、崇める人も少なくない。ならば、選挙の在り方について、あまり問われることがないのはなぜだろう。そりゃ、現行制度で当選した者が、わざわざ制度を見直そうなどとは思わないだろう。では、政治ショーを煽る報道屋はどうか。他の選挙方法では結果はこうなります!といったシミュレーションを公開してみるのも一つの手。選挙方法をちょいと変えただけで勝敗が逆転するとしたら、当選者の正当性はどうやって担保されるだろうか。選挙運動の不正もさることながら、選挙制度そのものの監視は誰の手に委ねるべきだろうか。... などと問えば、民主主義ほど矛盾に満ちたものはなく、論理学を重んじたアリストテレスの主張も分からなくはない。一貫性という観点だけで言えば、独裁制の方がスッキリするだろう。腐敗体制か恐怖体制かは別にして...ほとんどの選挙方法に「相対多数投票」が用いられ、無条件で多数決が崇められる。そうした感覚は、義務教育から馴染んできたこともあろう。候補者の戦略は、ひたすら過半数を目指すのみ。選挙に慣れない社会では最も分かりやすい方法だが、民主主義が成熟した社会ですらその意識は強い。さらに、同じ相対多数投票であっても、境界条件が違えば意味するものも違ってくる。例えば、都道府県知事は、地域全体の直接選挙であるため単純に得票数で勝敗を決する。では、総理大臣はどうか?国会議員は地方選挙区で選出され、政党の中で有力となる人物は当選回数がものを言う。ならば、一国の元首が、地元の影響力が強い者ほどなりやすいということになりはしないか。相対多数の原理に深刻な欠陥があると納得させることは、それほど難しいことではなさそうだ。おまけに、選挙の勝者は常に好まれて選ばれるのではなく、しばしば消去法によって選ばれる。つまり、こういうことだ。「相対多数から好かれる政治家は、大多数から嫌われる...」本書は、相対多数より優れた方法として「コンドルセ投票」、「ボルダ式得点法」、「即時決選投票」を検討し、最有力な方法はインターネットでよく見かける「範囲投票」だと結論づけている。しかしながら、どの方法をとっても、「不可能性定理」ってやつがつきまとう。ノーベル賞経済学者ケネス・アローが唱[...]



"天才数学者はこう賭ける - 誰も語らなかった株とギャンブルの話" William Poundstone 著

2017-07-23T11:09:14.415+09:00

博奕打ちとは、楽して金儲けをしよういう人種。そのために、情報収集に努め、賭け場を研究し、己の技を磨く。怠惰を求めて勤勉になるとは... 株式市場に参入する動機は、まさにこれ。今まで働いて貯めてきたお金を、今度はお金に働いてもらう。これが資産運用ってやつだ。自分自身に生産性がなくなれば、生産性のある者に投資する方が、社会的合理性に適っている。では、株式市場は合理的であろうか?ほとんどの経済学者はそう考えているようである。ただ、合理的という言葉は、修正のきく言葉だ。カオス理論では、原理がほぼ合理的でも、ほんのわずかな不確定要素のために混迷となる現象を扱う。その結果生じる物理学的なブラックホールも、数学的なアトラクターも、一旦嵌まると抜け出すことが難しい。こうした数学的モデルは、青天井になる金銭感覚を忠実に再現し、欲望社会の混迷を如実に投影する。人間は、理は避けられても、偶然は避けられない。ならば、偶然をも味方にすれば無敵となろう。もし偶然を法則化できれば、数学は錬金術となる。無作為、無秩序、不確定... これぞギャンブルの醍醐味。人生もまた。そして、オケラの酔いどれ天の邪鬼は、ドスの利いた声でつぶやくのだった... 一人勝ちするのは悪い奴!ハコテンこそ美学さ!理論的には株価に上限はない。それは、リスクもまた無限大であることを意味する。それでも、市場は長期的にはある程度合理的と言えよう。世界恐慌も、ブラックマンデーも、リーマンショックも乗り越えてきた。どうなに暴落しようとも、主だった株価指数がゼロになったことはない。最も危険なのは、レバレッジを賭けた場合だ。自分の財布と相談しながら賭けをやる分には大怪我をしない。これは最も単純なギャンブルの法則、小学生でも知っている。しかしながら、元手が自己資本から他人資本へ移行していくにつれ、大人どもはこんな単純な法則までも忘れてしまう。最も高度な金融工学で教鞭をと執る経済学者や、ノーベル賞級の経済学者までも。大金が人を狂わせるのか?そもそも人間が狂っているのか?天才数学者たちの運命の分かれ目もまた、この最も単純なギャンブルの法則が境界面にある。株式市場は、経済学や金融工学という名を借りて、すこぶる立派な社会行動の場に見えるものの、やはりカジノの類いか...本物語で驚かされたのは、あのクロード・シャノンが既に数学的方法論で株式投資をやっていたということである。情報理論の父と呼ばれる巨匠が。しかも、かなり成功していたとか。情報理論は、S/N比を問う世界。情報効率の観点から「情報エントロピー」の概念を用いて、CPUの性能アップよりも帯域幅を節約することの方に注力する。株式市場もまたノイズの渦巻く世界。乱雑する情報からいかに有効な情報を抽出するか、投資戦略はこれにかかっている。もう一人、注目すべき人物が紹介される。その名はジョン・L・ケリー2世、ベル研究所で二番目に頭が良いと評された[...]



"ゲーム理論と経済学" David M. Kreps 著

2017-07-16T15:17:17.662+09:00

今日、多くの研究分野で見かけるゲーム理論。その最も典型的な応用例は、経済行動におけるものであろうか。この理論自体は経済現象を完全に説明するものではなく、演繹的、帰納的に分析できるような数学モデルを構築する上で、一つの補助的な道具を提供してくれる。人は金が絡むと本性を剥き出しにする。そこに愛が絡もうものなら... つまり、人間の本質をモデリングする対象としてはうってつけとも言えよう。仮に、理想的なモデルとしての合理的な個人が存在するとして、そのような個人の集団が相互にどのように干渉し合うか、そこから現実の人間行動を理解しようという試みである。その予測過程では、チューリングマシン的な、オートマトン的な、あるいは人工知能的な方法も模索されてきたことだろう。ゲームという名に反し、ずっと厳密な戦略科学と言えよう。本書は、この方面の第一人者デイヴィッド・クレプスが語ってくれる入門書である。ゲーム理論の枠組みは、大きく二つに分類される。それは、「非協力ゲーム」と「協力ゲーム」である。本書が主題とするのは「非協力ゲーム」の方で、「協力ゲーム」は所々で説明の補足に用いられる。この扱いは、いかにも経済人モデルという印象を与えなくもないが、個人的な利得しか考えていなくても、結果的に利害が一致して協力的な行動を選択することもあれば、協力するつもりであっても、我が身可愛さに非協力的な行動を選択することもある。共通の利得が見い出せるかは、妥協という心理も働き、社会的合理性だけでは説明がつかない。経済活動に限らず政治活動ですら、十分に検討されたはずの契約や提携を破棄するといった行動がしばしば見られる。相手の思惑を知っているかどうかでも戦略は変わり、その行動パターンは、極めて統計学的であり、確率論的ですらある。犯罪心理学では、必ず動機というものが想定されるが、行動経済学においても、やはり同じであろう。どんなに協力的な行動であっても、人間ってやつはどこかで見返りを求めている。たとえボランティア的な動機であっても、自己実現や自己啓発という観点から、やはり独善的という見方はできるわけで、自己意識や自己愛の類いからは免れない。良心そのものが自己愛から発しており、その潜在意識から派生する人間の価値観は、金銭欲や名誉欲だけでは推し量れないのである。本書には、「均衡」という用語がちりばめられる。個人と個人、あるいは集団と集団の関係において、ある落ち着く点、協調点や妥協点と呼ぶ場合もあるが、そのような収束する状態を検討してみるのは有意義であろう。この収束点において、経済行動の基軸となる契約、提携、取引などが成立する。そして、非協力ゲームを研究する上で最も有用な概念に「ナッシュ均衡」を位置づけている。その事例で、あの有名な「囚人のジレンマ」が登場する。人間の価値観は、実に多様だ。それは趣味の数ほどある。いや、人の数[...]



"グラハム・ベル空白の12日間の謎" Seth Shulman 著

2017-07-09T08:10:07.532+09:00

状況が混沌とすればするほど政治力がものをいう。人間社会とはそうしたものだ。悲しいかな、真に技術に執心する者ほど政治に関心が薄く、そうした策謀に疎いものである。電話を発明した人は誰か?と問えば、真っ先にアレクサンダー・グラハム・ベルの名が挙げられる。理科の教科書や子供向けの伝記物語、そして権威ある学術書に至るまで。特許を巡っては、イライシャ・グレイとの争いが知られているが、グレイの出願が数時間遅れたことが不運な野呂間とされ、歴史からその名は消えた。歴史とは無残なもので、一番でなければ抹殺される運命にある。bell(鐘)という名が、電話により一層インパクトを与えたのかは知らん。しかしながら、産業革命がもたらした発明の時代とは、一攫千金の時代。けして一人の発明者が崇められるほど単純な時代ではなかったはず。ましてや通信業界は、自由精神を体現するツールとして強力なだけに、そこに政治力が関与すると、いびつな世界にしてしまう。おまけに、儲け話が絡めば野心家どもが群がるは必定。実際、ベルが創設に関与した AT&T の前身ベル・テレフォン・カンパニーは、世界最大の収益を独占した。今日の特許闘争でも、争っている当人たちではなく、第三者のものではないか?といった多くの疑問が投げかけられる。「歴史の勝者は、物事がどのように記憶されるかをコントロールするのに最適な立場にいる。」サイエンス・ライターのセス・シュルマンは、ベルの実験ノートを見て腑に落ちない点を見つける。12日間の空白... そして、突然わいて出たアイデア... これが天才のなせる業!と片付けてしまえば、それでお仕舞い。しかし、シュルマンはベルの足跡を執念で追い、そこに渦巻く政治的思惑を突きとめる。神格化されたベル伝説の裏に、法律家ガーディナー・ハバードたちの限りなく疑わしい陰謀があったことを。ベルの資料が米国議会図書館で見事な目録まで添えられるのに対して、グレイの業績に関する文献は数も少ない。そんな不利な状況でも、グレイが受けた不当な仕打ちを明らかにしようとしたロイド・テイラー博士のような人たちがいる。テイラーは、グレイの親族から長年忘れられてきた書類の山を引き取っていたという。その意志を引き継いだシュルマン。事実を細い糸でつなぎ合わせれば、まさに糸電話の伝言ゲーム... ベルは電話のアイデアを盗んだのか?とはいえ、歴史を完全に明るみにすることは不可能であろう。真相を知るのは当事者だけであるばかりか、当事者ですら分かっていないこともある。当時の電信から派生した電話にしても、さらに派生したインターネットにしても、人間社会でこれだけ恩恵を受けていれば、誰が発明者だ!などと権威を振りかざしたところで詮無きこと。この物語は、いわばベル崇拝者へ叩きつけた挑戦状と言えよう...「電話の発明に関するこの研究で、わたしが何かを学んだとすれば、それは、歴史と[...]



初体験!博多港クルージングパーティ...

2017-07-02T19:32:34.811+09:00

先週日曜日、バーの五周年パーティで博多港マリエラ・クルージングを体験させていただいた。マスターとは、彼の中洲デビュー当時からの付き合いで、二十年くらいになろうか。お酒の弱いバーテンダーはよく見かけるが、彼はその中でも弱い。その分、デリケートなお酒を作るとも言えそうか。いや、最近はお弟子さんに任せっきりか...地下とはいえ、中洲のど真ん中に店を構え、そして独立五年目で船を一隻チャータし、百人以上詰めかけたという次第。短い期間で、こんな立派な催しが企画できるとは、大したものである。ちなみに、おいらも今年で独立十五周年。十周年には、ささやかな酒席を催したが、いつもの飲み会と何が違うんだって突っ込まれる始末であった...ところで、日曜、祭日といえば、どこへ行っても人が多い上に、行付けの店が総閉まり。なので、天の邪鬼の休日は世間とは真逆である。連休には存分に集中して仕事をし、年末には除夜の鐘が BGM で鳴り響き、年が明けた瞬間にも気づかない。仕事は半分趣味のようなもの。電子回路設計なんて、ちまちましたことは、好きでもなければ、やってられんだろう。そして、イベントが日曜日にあるということで、出席するか?ちと悩んでしまった。バーテンダー仲間では、その方が都合がいいようである。最近、騒々しい飲み会は、たいてい欠席するようにしている。歳のせいか、優先順位を気にするようである。しかし、だ!クルージングとなると、話は違ってくる。人生で優先すべき事は何か?今の仕事は、それほど重要な事か?と問えば、答えはすぐに見つかる。初体験!という言葉の響きには、いくつになってもワクワクさせられるものがある...案内状に、ドレスコードは赤!何か一つ赤いものを身につけて... とのことなので、ワインレッドの裏地に、ブラックラベル風の着物でチラリズムを演出する。ただ、上品な海上(会場)で裏地を見せる機会があるはずもなく、わざわざ自分でめくってアピール。なんて上品な客だろう。千鳥足には船の揺れで相殺させ、赤ワインに酔った体もしっかりとした足取りに見えるという寸法よ...音楽の演出は感動モノ!お酒や食事が華やかなのは想定内だとしても、音楽の演出には感動した。ピアノ、バイオリン、ハープに、アルゼンチンタンゴの楽器バンドネオンのライブ。惚れっぽいおいらはイチコロよ。バンドネオン演奏者の川波幸恵さんは、2016年世界チャンピオンだそうな。CDも発売され、9月にもコンサートがあるというので、さっそくチケット状況をググる。何に感動したかって、選曲が... なにしろ仕事で BGM にしている曲のオンパレード。そして、"You Raise Me Up" が奏でられた時、つい陶酔してしまう。いや、泥酔か。どうやら、おいらの仕事のリズムは、船の揺れにマッチしているらしい。てなわけで、マスターには悪いが、パーティそっちのけで最前列で聴き入ってしまう。まさに人生の優[...]



WUuu... の呪いは、酔いどれ愚者を創造者へアップデートできるか?

2017-07-07T17:53:21.176+09:00

SM 狂の十字架バージョンでは...記念日に呪われ、非生産性な騒動に巻き込まれた。ようやく平和が訪れ、仲間内で合言葉となっていた WUuu... の声も聞かれなくなった。ちなみに、WUuu... とは、Windows Update の略で、うぅぅ... と唸りながら発声する。今度は、Creators Update...ある仕事場の環境で新規に一台購入すると、既に Creators Update 版であり、こいつがなかなか安定している。なので、残りの Win マシン10台をアップデートに踏み切った。おぉ~、安定してそうじゃないかぁ... 気持ち悪いほどに... こんな当たり前のことで感動させてくれるとは... なるほど、これが SM 狂戦略であったかぁ...そして、酔いどれ愚者の生産性までも高め、創造者へアップデートしてくれるってかぁ?しかしながら、これで「WUuu... の呪いは解けた!」と宣言する自信は、まだ持てないでいる。出来の悪い子ほど... と言うが、安定さえしちまえば、Win10 群もなかなか可愛い連中である。ただし、これで仕事をした気分になってはいけない。環境に翻弄されているということは、本来の仕事が疎かになっているということだ。猛省!実に、エンジニアらしくない...今回は、ファイル共有で嵌ってしまった。結論から言うと、帯域系に問題を抱えていた。具体的には、 受信時のウィンドウ幅である。なのに、ひたすらファイル共有を疑い、あれこれ設定を試した挙句徹夜してしまう。この手のトラブルはシステムの根本的な問題なので、最初に気づきそうなものだが...Win10 の一連のアップデートは、ある教訓を与えている。目先の現象に囚われ、エラーメッセージを冷静に捉えることができず、設定を感覚的にいじっている。とにかく動けばいいってな感じで躍起になっているのだ。経験を積めば、蓄積された知識の方が先立ち、改めて現象を観るという基本的な思考が疎かになる。思い込みってやつだ。歳をとるとせっかちになるのか。問題を抽象化することが悪いことではない。ただ、思い込みと紙一重だということも忘れてはなるまい。そして、WUuu... の呪いは、この酔いどれ愚者に一つの教訓を与えてくれた。それは... まず観ることだ!さて、酔いどれ愚者の思考の流れを追っておこう...1. バージョン 1703, ビルド 15063.413...ぱっと見た目には、すっきりした感がある。スタートメニューのタイルをグループ化して、まとめることができる。iPhone のように。鬱陶しいアプリ一覧も非表示にできる。しかーし、例のごとく、関連付け、キーバインド、規定の IME などの設定がチャラ。しかも、マシンによって症状が違うときた。おっと!プリンタが使えない。再設定すればいいのだけど...こうした些細なものがボディブローとして利いてきて、生産性を思いっきり低下させる。吹聴される大型アップデートってやつは、そもそもアップデートと呼べる代物なのか?... こうして、まずは愚痴るのであった...2. ファイル共有でトラブル?い[...]



"全貌ウィキリークス" Marcel Rosenbach & Holger Stark 著

2017-06-18T08:15:30.321+09:00

情報告発サイト「ウィキリークス」は、戦争日誌や外交公電など各国政府の機密情報を続々と暴露してきた。ただ、そこに真新しいコンセプトを感じるわけではない。内部告発系では多くの先行サイトを見かけるし、こうした風潮はデジタル時代が生んだ必然性とも言えよう。政治ってやつが、その性格上いかに胡散臭いものであるか、それを長い歴史を通じて印象づけてきたということである。公開された情報の中身を吟味すれば、世間が騒ぐほどセンセーショナルかと言えば、そうでもない。推理小説ファンならば、十分想像できる範疇。むしろ、公式に明るみになったことがセンセーショナルなのである。映画「コンドル」では、平凡に世界各国の推理小説を読んで報告書を提出するだけが仕事という情報部員が、たまたま中東における陰謀を暴いてしまったために暗殺に追い込まれる。最後に逃げ込んた先はニューヨークタイムズ。しかし、本当に記事になるのか?と疑問を投げかけて終わる。映画公開から数十年後、皮肉なことにイラク戦争が勃発。大量破壊兵器保有の証拠とされているものは虚偽である、とスッパ抜いたのがウィキリークスである。当時の小泉政権は真っ先に米国政府を支持し、日本政府にまともな情報機構がないことを露呈した。情報力がないということは、判断力がないことを意味する。つまり、他人からの情報を盲目的に信じるしかないってことだ。今日、宗教の重要性が広く疑問視されているように、政治もまたその必要性が疑問視されている。その一因に、政治に対するジャーナリズムが十分に機能していないと広く考えられていることが挙げられる。ネットで情報検索する習慣のある人は、テレビや新聞で報じられるニュースがいかに偏狭であるかに気づくだろう。その分、ネットには極端な情報も溢れているのだけど...ウィキリークスは各国政府から槍玉に挙げられたが、むしろ彼らの出現は今日のジャーナリズムの在り方を問うている。創設者ジュリアン・アサンジは、こう豪語する。「ウィキリークスは世界最強の諜報機関になれる... 人民の諜報機関だ!」ディオゲネスが唱えた世界市民思想から、カントが唱えた国際的平和連合を思わせるような動機。著者の二人、マルセル・ローゼンバッハとホルガー・シュタルクは、ウィキリークスの源泉は、既に啓蒙時代に見て取れると指摘している。彼らは、密着取材を許され、メディアパートナーとして活動を共にしてきたという。そして、ウィキリークスの偉業を讃えるだけでなく、システムの脆さやアサンジ個人の汚点までも浮き彫りにし、友情と失望と裏切りの物語が綴られる。いわば、暴露サイトの裏舞台を暴露するドキュメントである。「ウィキリークスは世界各国の政府から、政治的な統制力を奪おうとしているのではない。支配とは何かについて疑問を投げかけているのだ。[...]



"たいした問題じゃないが - イギリス・コラム傑作選" 行方昭夫 編訳

2017-06-11T07:37:46.835+09:00

たいした問題じゃない... と言えば、そうかもしれない。哲学とはそうしたものだ。しかし、それがなければ人生は味気ない。なにも重々しく構えることはない。思わずニヤリとしてまう文体の群れ、群れ、群れ... 英国紳士風のユーモアを皮肉屋が仕掛けてくれば、酔いどれ天の邪鬼はイチコロよ...英国には、文学の一ジャンルとしてエッセイの地位が高いという伝統があるらしい。その源泉はシェイクスピアやフランシス・ベーコンあたりに遡るのであろうが、評論とたがわぬ堅苦しさが残る。十八世紀になるとジャーナリズムが勃興し、ジョゼフ・アディソンやリチャード・スティールらが、政治経済だけでなく風俗慣習や身近な出来事などを題材にしたという。十九世紀には、チャールズ・ラム、ウィリアム・ヘイズリット、リー・ハントらが、一段と庶民に親しみやすいものにしたとか。特に、ラムの「エリア随筆」は傑作として名高いそうな。そして二十世紀初頭、A. G. ガードナー、E. V. ルーカス、ロバート・リンド、A. A. ミルンといった名エッセイストを輩出した。本書は、この四人の選集である。尚、リンドは二十世紀のラムと称されるそうな。ミルンの児童小説「クマのプーさん」は日本でも親しまれている。四人とも、ジャーナリストで、作家で、批評家で、文化人で、新聞雑誌のコラムを担当したという似たような経歴を持つ。このようなエッセイ文学が開花した時期が第一次大戦前後と重なるのは、暗い出来事を明るく書いてないとやってられん!とでも思ったのか。彼らは年齢が多少違えば、出身地も背景も違う。なのに、それぞれの作品群には多くの共通点が見出せる。無意識と習慣の奴隷、関心と無関心の境目、忘却と幸福の相性、嫉妬と愛情の癒着、怠惰と迷信の法則、規則と自由のバランス、名誉と偶像の崇拝、動物愛護と人間虐待の矛盾... といった対称的題材を表裏一体として描きながら人間性の滑稽と醜態を暴く。それでいて人間の弱さには温かい目を注ぎ、書き手自らダメ人間を演じて、人間悲劇を人間喜劇として描写する。ちょいと考えてみれば、どれも古代から哲学者たちが論争してきた題材ばかり。ここには、人類の普遍性のようなものが語られているのやもしれん... と言えば、ちと大袈裟であろうか...読者というのは、自分の思考に近い作品を好むもので、おいらの場合は、特に無意識と無関心についての記述に惹かれる。人の本性が無意識の領域にあるとすれば、概して人間は自我を知らないことになる。心の落ち着く場所が見つからず、魂に余裕がないとすれば、そして、それに気づかなければ、ぼんやりとした不安に襲われ、苛立ちを隠せないだろう。道徳家や有識者たちは、なにゆえ、いつも、けしからん!と憤慨しているのか。せかせかした日常に慣らされてしまえば、本当に大事なことを見失ってしまう[...]



"英文快読術" 行方昭夫 著

2017-06-04T07:58:40.536+09:00

グローバル化していく社会にあって、英語に無関心でいることは難しい。受験生は仕方ないとして、突然、海外赴任を命じられる事もある。具体的な動機が見つからなくても、せめて英語ぐらいは... と漠然と考えている人も少なくないだろう。欧米人並に操りたいと理想を膨らます人から、海外旅行で道を聞く程度まで、目標設定によって挫折感も違ってくる。日本の英語教育には、入試対策が巧妙化するだけで、中学二年生ぐらいから徐々に落ちこぼれていくという悲しい現実がある。大学は、非常識なほど難しい題材を扱い続ける。その難易度が格付けと言わんばかりに。英語教育が英語嫌いを助長するとは、なんとも皮肉である。では、学校の教材や参考書が悪いのだろうか?本書は、そうではないと指摘している。日本語の達者なアメリカ人のエピソードでは、日本の学校教育のように要領よく教えれば、文法的に酷い間違いをするアメリカ人も減るだろう、と言ったとか。それで成果は?と問えば、一言もない。楽しんで参考書を読んだなんて記憶はまったくないし、一時的な入試対策では卒業とともに廃棄してしまった。手段ばかりに目を奪われ、本来の目的を見失っていた典型である。そして、最初から教材探しに翻弄する羽目に...あのシドニーシェルダンのオーソン・ウェルズが演じるシリーズを購入したのは、二十年前になろうか。そぅ、ドリッピーだ!英会話学校へ通えば、外国人講師から broken english を勧められる。最初から完璧に喋ろうとしても言葉が出てくるはずもなく、もっと人生楽しもうぜ!ってな具合に。ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」を題材とした英会話講座に参加すれば、いい歳こいたオヤジが学生に混じって、いまさらアリスもないだろう!と恥ずかしい思いもしたが、実に楽しかった。習うより慣れろ!とは、プログラミング言語と同じ。そんなおいらだって、そこそこ喋れるようになった時期がある。だが、使わないとやはり衰える。いまだに外国人の前ではジェスチャーが多く、失語症のような感覚に見舞われる。老齢化って言うな!英語で失敗し、恥をかくこと幾度と知れず。どうやら英文と戯れることを、またもや忘れかけているようだ。本書は、英語再入門のための指南書である。具体的な活用事例として、小説の retold 版を紹介してくれるのがありがたい。著者行方昭夫氏には、サマセット・モーム小説の翻訳で魅せられた。小説と戯れるような感覚で英語長文に触れられれば... この感覚こそ、解読術ならぬ快読術!それは、速読術ならぬ速愛術のようなものか...言語習得に、単語と熟語、文法、文章読解という三つの力を鍛えることは、いつの時代も変わらない。ただ、英語と日本語は物理的に周波数帯が違うわけで、巷を騒がしている「聞き流すだけで...」といった宣伝文句[...]