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真澄鏡 ―まそかがみ



天羽絢子のコラム・レポート「真澄鏡」。日本の歴史、文化、思想について考察していきます。



Published: 2007-05-04T02:48:14+09:00

 



文化/思想に見る桜 Part1

2007-05-04T02:27:13+09:00

…私たちの日本の花、すなわちサクラは、その美しい粧(よそお)いの下にとげや毒を隠し持ってはいない。
自然のおもむくままにいつでもその生命を棄てる用意がある。その色合いはけっして華美とはいいがたく、 その淡い香りには飽きることがない。

では、このように美しく、かつはかなく、風のままに散ってしまうこの花、ほんのひとときの香りを放ちつつ、永遠に消え去ってしまうこの花が「大和魂」の典型なのだろうか。
武士道 新渡戸稲造 奈良本辰也訳

●「花は桜木」になったのはいつ?

 今年も桜の季節がやって来た。公園では今まさに満開の桜の木の下で、シートを広げて宴を楽しむ花見客を見ることができる。
 桜は、いつからこれほど日本人に親しまれるようになったのか。
日本書紀には木花咲耶(このはなさくや)*注1という桜の神が登場するが、上代(じょうだい)に花と言えば、唐から渡来した白梅を指した。
 平安時代になると紀友則(きのとものり)が
久方(ひさかた)の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ〔古今和歌集・巻二・春下・84、小倉百人一首収蔵〕
※意訳
こんなにも柔らかな光が降り注ぐ春の日に、はらはらと、どうして桜の花は散っていくのだろう。
と詠み、在原業平(ありわらのなりひら)が
世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし〔古今和歌集・巻一・春上・53〕
※意訳
もしも、この世に桜が存在しなかったら、咲くのにじれ、散るのを惜しむこともなく、春は穏やかな気もちでいられただろうに。
とその心情を表したように、歌の題材として桜が選ばれることが増えて*注2くる。奈良時代の唐風への傾倒に対する反動からか、この時代には国風文化が育つのだ。
 いわゆる十二単の色目の一つである「桜襲(さくらがさ)ね」*注3という、紫または赤に白の薄い衣を重ねて表現した色目も貴族に好んで着用された。
また、「桜尽くし」「桜散らし」などの桜花の文様も時代とともに発展して行き、様々な調度品にあしらわれたという。
『海浜松桜蒔絵硯箱』
『色絵桜樹文皿』
『白綾地桜花扇面散し幔幕文様繍絞り小袖』

●花見の系譜

 812年〈弘仁3年〉嵯峨(さが)天皇神泉苑(しんせんえん)で催した宴を境に、観桜が恒例化していく。
武家が台頭しても風習は引き継がれ、時の為政者は盛大な花見を主催した。中でも、太閤秀吉の醍醐の花見は特に有名である。
『醍醐花見図屏風』
『東山遊楽図屏風』
 時は下って江戸時代には、庶民の娯楽、いや「ハレ」の行事として、今日のような形式*注4の花見が定番になった。
「花の宴 下女蒟蒻に よりをかけ」「髪を結ふ 側で重箱 あけて見せ」には、花見の支度にはずむ今と変わらない女性心理が覗く。
弁当に詰めたのは、ちらし寿司・卵焼き・煮しめ・なます・かまぼこなど。
御殿山の花見と花見弁当
隅田川や御殿山といった花見の名所には、酒・桜餅・てんぷらの屋台も出て、賑わいを見せた。
『江戸御殿山櫻宴之風景』
*注1 木花咲耶
木花之佐久夜・木花開耶とも。海幸彦と山幸彦の母。
*注2 桜が選ばれることが増えて
学者によって数え方が違うものの、万葉集の40首前後が古今集では100首前後に増加。
*注3 桜襲ね
色見本 (image)
*注4 今日のような形式
群生、群集、飲食。江戸時代に桜の名所とされた上野・吉野山などでは、色々な種類の桜を配して一ヶ月ほど花見ができるようにしたという。



文化/思想に見る桜 Part2

2007-05-04T02:31:57+09:00

●桜を愛した文人・思想家

ねがはくは 花のもとにて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ〔山家集・77・西行法師〕
※意訳
もし叶うなら、二月〈旧暦〉の満月の日に桜の花の下で死にたいものだ。
 誰もが耳にしたことがあるだろうこの歌の作者・西行法師は、桜好きの歌人、それも「落花の美学」のもち主として人後に落ちない。
あくがるる 心はさても やまざくら 散りなむのちや 身にかへるべき〔山家集・67・西行法師〕
※意訳
山桜*注5の花への憧れはどうしたことだろう。散ったあとに心は我が身に戻って来るのだろうか。
(image) 桜好きが高じて、西行は桜の名所の吉野に庵(いおり)を構えて移住したと伝えられる。
 吉田兼好は『徒然草』の中で
吉野の花、左近の櫻、皆一重にてこそあれ。八重櫻は異樣のものなり。
※意訳
吉野桜にしても、御所(ごしょ)の桜にしても、花びらは一重です。八重桜はおかしいのです。
と八重桜を忌み、一重の桜を偏愛する。
 「もののあはれ」〈人間の抑えがたい情動、感動の現れ〉を提唱した国学者の本居宣長は山桜をことの外愛し、自画像
敷島(しきしま)の やまと心を人問はば 朝日に匂ふ 山桜花
※意訳
大和魂とはどういうものだろうかと人に訊ねられたら、朝日に照らされて映える山桜のようなすがすがしい美意識だと私は答える。
という歌を添えた。宣長には桜のみを題材にした歌集『枕の山』もある。
 新渡戸稲造は『武士道』の中で、上の宣長の歌を引きながら、桜と大和魂を重ね「日本風土に固有のもの」として欧州の薔薇と対比させた。

●武士道の中の桜

武人の桜観
詩歌を吟じることが武士のたしなみになってからは、自然の移り変わりに我が身をなぞらえて表現することも王朝歌人の専売ではなくなった。
そして、そこには「もののふ」ならではの死生観が織り込まれる。
誘ふとて なにか恨みん 時きては 嵐の外に 花もこそ散れ〔大内義長〕
※意訳
人に誘われて死に追いやられたとしても、なにを恨むことがあるだろうか。その時が来れば、花は嵐が吹かなくても散っていくものだ。

限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心みじかき 春の山かぜ〔蒲生氏郷〕
※意訳
花の命には限りがあるのだから、風が吹かなくてもいずれ散るというのに、春の山風は気短に吹きつけてくる。

三芳野の 花は数には あらね共 散るにはもれぬ 山桜かな〔三好康俊〕
※意訳
三好の武士の中で数の内には入らない自分も、吉野の山桜のように例外なく散るようだ。

桜田の 花とかばねは さらすとも なにたゆむべき 大和魂〔佐野竹之助 水戸藩士・桜田門外の変没〕
※意訳
〈桜田は花の縁語〉例え、桜田門外に屍(しかばね)をさらすことになったとしても、どうしてこの大和魂を抑えられようか。

いたづらに 散る桜とや 言ひなまし 花の心を 人は知らずて〔森五六郎 水戸藩士・桜田門外の変のち斬首〕
※意訳
意味もなく散り急ぐ桜と人は言うだろう、散っていく花の本心を知ろうともしないで。

散るもよし 芳野の山の 山桜 花にたぐひし ものゝふの身は〔山田亦介〕
※意訳
侍の命を花に喩(たと)えて、散る時は吉野の山桜のようにありたいものだ。
 花の盛りが短く、枯れる前に枝から離れる桜の特性を、昔の日本人が「潔い」と称したことに不思議はない。
それが武士道における生に執着しないという観念とあいまって、「桜が散るように死ぬ」と喩えられるようになったのだろう。
上に挙げた歌がみな辞世(じせい)の句であることも注目に値する。
*注5 山桜
当時の桜の品種は主に山桜であり、これは花びらが小さく、花と葉がいっぺんに出る。ソメイヨシノが誕生したのは江戸末期と言われる。



文化/思想に見る桜 Part3

2007-05-04T02:33:53+09:00

●桜を取り巻く思想

桜はどう見られているか
桜について書かれた最近の本を読むと、多くの人が「桜に対する思想」を意識していることがわかる。
例えば、「桜の花は軍国主義者によって、潔く散るという死の美学の象徴になったが、本来桜にもの悲しいイメージはなく、散り際が強調されることもなかった」という切り口がある。
『ねじ曲げられた桜 — 美意識と軍国主義 — 』大貫恵美子著、 『桜の文学史』小川和佑著などが代表例だが、恐らくは、「軍国の花」像を否定せんがために、桜の下での楽しい宴にのみ光を当てて、世をはかなんだりする文学はおろか意識さえも歴史上存在しなかったものとして扱っている。
明治維新以後の近代化の過程で日本が軍国主義に飲み込まれていったという前提に立ち、散華(さんげ)の実行者を「国家権力に利用されて死に追いやられた可哀想な人々」として憐れみ、桜にまつわる陰のイメージを「若いラジカルな革命家たちの桜観」と強く否定する。
武門のさくらが美しい死の象徴だといったのは明治以降の狂的なナショナリストの戯言にしかすぎない。

国防軍の擬似士族化の中で、さくらは王朝文化の華としてのさくらから、士族のというよりも武士の精神のさくら、その死を飾るべき国華というふうに全く異質なものに変質した。
都市文化の花、生命の輝きとしてのさくら、美しい女身の俤(おもかげ)としてのさくらは明治士族の手で、武の化身、死の花となった。
歌舞伎の演劇空間の虚構の悲愴美が宣長の国粋思想を吸収して、明治士族たちの手で国民皆兵を推進する国華としてのさくらを作り上げた。
小川和佑

●相反する桜の印象

生か死か、陰か陽か
 ここではまとめにかえて私見を書いてみたい。
小川氏は「平安びとは散るさくらにいのちのはかなさは見ていない。落花に無常を見るのは、中世以降わたしたちの心に影を落した無常観の結果」として都の桜を輝く生の象徴と定義するが、小野小町の「花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に」を引くまでもなく、宮廷が栄華を誇った時代でも無常観を著(あらわ)した歌は枚挙(まいきょ)にいとまがない。
空蝉(うつせみ)の 世にも似たるか 花桜 咲くと見しまに かつ散りにけり〔古今和歌集・巻二・春下・73、詠み人知らず〕
※意訳
桜は今生の空しさに似ている。咲いたと思いきや、もう散ってしまった。

散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂(う)き世になにか 久しかるべき〔伊勢物語・82〕
※意訳
散るからこそ、桜は素晴らしい〈引き立つ〉のだ。この世になにか永遠と呼べるものがあるだろうか。

はかなさを ほかにもいはじ 桜花 さきてはちりぬ あはれよの中〔新古今和歌集・巻二・春下・141、徳大寺実定〕
※意訳
はかなさというものを喩えて言うとしたら、桜花以外にあるまい。咲いては散る、世の中は哀れなものだ。
 また、武門の桜についても、小川氏が作中で言及している『仮名手本忠臣蔵』〈寛延元年成立・竹田出雲〉の十段目の名台詞「花は桜木、人は武士」で当時の価値観が提示されており、江戸初期には既に武と桜が結合していたことが見てとれる。
決して「明治以降の狂的なナショナリスト」が桜を「美しい死の象徴」に祭り上げたのではないし、「散るさくらに絶えてゆく生命を見る観念」が「八世紀以来の桜観になかった全く異質」だったのでもない。軍(いくさ)の庭に露と消えた武将が詠じた桜は、まさに「己の生命の終焉」だったのだから。
  氏が「きわめて視野の狭い強烈な自己愛」とこき下ろす本居宣長の敷島の〜の句は、「桜は日本らしいナショナルな花だ」と宣長が初めて思ったというより、遥(はる)か昔からあった感覚をはっきりと言葉にして確認したに過ぎず、梅に対して桜が日本らしいというのは、梅が渡来した時点で意識されたであろう。
「らしさ」は、特定の学者や為政者(いせいしゃ)がある日突然唱えて広まるのではなく、その共同体を構成する人々の意識、慣習の集積だ。個人の提案によって、一朝一夕に生まれるものではないのである。
桜に「武士らしさ」を見たのも、いて当り前だった士族が姿を消してそのエッセンスを抽出して伝える作業が行われた結果であり、長い間培われてきた感覚が母体になっているのは言うまでもない。
 また、現代においても、桜は「新しい命が萌出る春の喜びの象徴」であり、「祭りのあとの切なさの象徴」でもある、二面性をもつ。
清水(きよみず)へ 祇園をよぎる 桜月夜 こよひ逢ふ人 みなうつくしき〔みだれ髪・与謝野晶子〕
※意訳
今夜は桜の咲く月夜、清水寺へ行こうと祇園を通ったら、すれ違う人がみななんて美しく見えるのでしょう。
 新古今和歌集に代表される貴族の洗練された風雅な世界も、幕末の志士が「最期の言葉」として志しを託した散華の歌も、どちらも歴史の真実である。
遠い山々のいくつもの源泉から流れ出た水が大河になるように、歴史はつながっている。
ものごとの一方だけをとり上げて他方をなかったことにするのは公平な視点と言えず、個人のイデオロギーを優先させた結果の「偏向」ではないだろうか。
…人はだれしもこの幸福な島国で、春、とくに桜の季節を京都や東京で過ごすべきだ。

色とりどりの風船、凧(たこ)、それに紙製の蝶が空中に飛びかい、その間、目も覚めるような美しい着物を着た幼い子どもたちが、色鮮やかな蝶のように、袂(たもと)を翻(ひるがえ)して舞っている。
世界の他のどの土地で、桜の季節の日本のように、明るく、幸福そうでしかも満ち足りた様子をした民衆を見出すことができようか?
明治日本印象記 アドルフ・フィッシャー

参考文献
維新志士回天詩歌集 藤田徳太郎
維新志士勤王詩歌評釈 小泉苳三
江戸っ子は何を食べていたか 大久保洋子監修
西行 高橋英夫
桜が創った「日本」—ソメイヨシノ 起源への旅— 佐藤俊樹
桜の文学史 小川和佑
祝祭日の研究 —「祝い」を忘れた日本人へ 産経新聞取材班
戦国武将の辞世 藤公房
ねじ曲げられた桜 —美意識と軍国主義 大貫恵美子
花見と桜 白幡洋三郎
武士道 新渡戸稲造 奈良本辰也訳
みだれ髪 与謝野晶子
明治日本印象記 アドルフ・フィッシャー
文様の名前で読み解く日本史 中江克己
靖国 坪内祐三




◇粋の系譜 魅惑のべっ甲—日本べっ甲史— Part1

2007-05-04T02:36:04+09:00

●べっ甲の由来

 べっ甲を漢字で表すと、鼈甲。鼈(べつ)とはすっぽんのことだが、べっ甲の原料はすっぽんの甲羅ではなく、玳瑁(たいまい)*注1という熱帯のさんご礁にすむ亀である。
それならば、何故、「鼈甲」と呼ぶようになったのか。
長崎には、江戸時代に福の神のような霊力をそなえたすっぽんの姿を、ご禁制の玳瑁ではなくすっぽんの甲羅で彫刻して江戸の姫君に献上したという民話がある。
また、喜田川守貞は『守貞謾稿』の中で、
余が所聞何の年歟(か)、官命にて玳瑁の櫛笄を禁止す。其後奸商(かんしょう)が玳瑁と云ず鼈甲と名付けて販(ひさぐ)之。
今世の人は鼈と云を本名と思ふ人多り、又官にても往々高價鼈甲を禁ず事あり。鼈は土鼈(どべつ)にて乃(すなわ)ち俗に云すっぽん也。
玳瑁は珍宝の其一也。夫(それ)を奸商すっぽんに矯けて賣之んなり。
※意訳
私が聞いた話では、いつのことだったか、お上が玳瑁の櫛・笄を禁止した。
その後、ずる賢い商人が玳瑁とは言わずにべっ甲と名づけて、販売した。
今は鼈を本名だと思う人が多く、お上もよく高いべっ甲を禁ずるが、鼈というのは俗にいうすっぽんである。
玳瑁は珍宝の一つで、商人がすっぽんと偽って売ったのだ。
と述べている。
この守貞の指摘が今は定説となっているようだ。

●日本最古のべっ甲

 有史以来、日本人と亀甲の関わりといえば、まず占いの亀卜(きぼく)を思い起こすが、これは「和甲」(わこう)と称するアオウミガメの甲羅でタイマイではない。
 「日出(い)づる処の天子(てんし)、書を日没する処の天子に致す…」ではじまる国書を携え、小野妹子が海を越えた翌年の608年、隋の皇帝が贈った答礼品にべっ甲があり、日本に初めてべっ甲が伝来したとの説がある。
大日本人皇三十四代、推古天皇十五歳〈本朝女帝の始也〉聖徳皇太子攝政(せっしょう)の時、小野妹子臣を於隋の煬帝に遣、玳瑁を持渡。
玳瑁亀圖説・金子直吉
※意訳
日本国の皇統34代にして初の女帝・推古天皇の在位15年目、聖徳太子が摂政の時に、小野妹子が隋へ赴き、べっ甲が渡来した。
続いて、この玳瑁は「うちわ」で、聖徳太子ゆかりの広隆寺に収蔵すると記している。
 奈良時代、聖武(しょうむ)天皇の御代(みよ)になると、遣唐使の出帆(しゅっぱん)や高名な僧侶の来朝が相次ぎ、大陸との往来が増えた。
正倉院に現存するべっ甲製の楽器*注2・如意〈儀式用の杖〉等の仏具・調度品は、ほぼこの時代の献上品との分析がある。
『螺鈿紫檀五絃琵琶』
『螺鈿紫檀琵琶』
法隆寺にも『玳瑁張経台』が伝わっており、こうした玳瑁張りの仏具と仏教の伝来は、大陸から日本に到る時期や経路が重なることから、つながっているといえよう。
 840年〈承和七年〉成立の『日本後紀』には「勅、玳瑁帯者。先聴三位已上著用」とあり、高官の腰帯*注3に玳瑁を装着していたことが窺える。
また、天神さまで知られる菅原道真(すがわらみちざね)の愛用品にも、象牙にべっ甲の飾りをはめ込んだ挿(さ)し櫛『玳瑁装牙櫛』がある。
王朝貴族の時代、玳瑁はその字の玉へんが示すとおり、まさしく希少な宝ものだった。
*注1 玳瑁
http://www.ne.jp/asahi/sphere/1/Gallery/TU/tu002.html
爬虫網‐無弓亜網‐カメ目‐潜頸亜目‐ウミガメ科‐タイマイ属
学名 :Eretmochelys imbricata
英名 :Hawksbill turtle
主に海綿・海藻・貝を食べ、熱帯のさんご礁に生息する。
全長50cmから150cmほど。
背中の甲羅は暗褐色と黄色のまだらで、13枚の鱗板(りんばん)が重なり合っている。
背甲を囲う小さな縁の甲は「爪甲」という高級品。お腹にも乳白色から淡黄色の薄い甲羅がある。
*注2 楽器
『螺鈿紫檀五絃琵琶』は聖武天皇のきさき、光明皇后の遺品という。
琵琶は4弦のものが多く、5弦の琵琶は珍しい。正倉院に現存する楽器は楽譜とともに伝わったと考えられる。
宮内庁楽部の箏(そう)いわゆるお琴の龍頭龍尾にもべっ甲が使用されているとのこと。
琴の爪・三味線のばちにも見られるように、べっ甲と楽器はなじみが深い。
*注3 腰帯
石の飾りがついた革製の帯を指す。石帯(せきたい)ともいう。
平安時代の貴人が着用した。官位に応じて使える石が決まっており、『延喜式』〈延喜五年より編纂〉は「…玳瑁(たいまい)瑪瑙(めのう)斑犀(はんさい)象牙(ぞうげ)沙魚皮(さめかわ)紫檀(したん)五位已上通用」としている。



◇粋の系譜 魅惑のべっ甲—日本べっ甲史— Part2

2007-05-04T02:37:57+09:00

●江戸の女性の最大の見栄  べっ甲が装飾品として女性の憧憬(しょうけい)の的になったのは、江戸時代に入ってからだった。 有名な絵師は髪にあめ色の櫛・かんざし・笄(こうがい)をさした遊女の図を次々と描き、べっ甲はその飾りの型とともに全国へ広まると、女性の羨望を誘ったのだ。 『錦絵』 歌川国貞 『仇競今様姿』 渓斎英泉 『江戸名所百人美女 花川戸』 歌川豊国 明暦年中迄は、大名の奥方ならでは、鼈甲は不レ用、遊女といへども、つげの櫛に鯨の棒かうがいにてすみぬ。 元禄の頃より、世上活達になりて、鼈甲もはやあきて、蒔絵などかゝせ、鼈甲も上品をえらび、価の高下にかゝはるといへども、金二両を極品とす 我衣 加藤史尾庵 ※意訳 明暦年間までは大名の奥方以外はべっ甲を使わず、遊女といえどもつげの櫛と鯨の笄で装ったが、世情が華美になった元禄の頃にはただべっ甲をさすだけでは満足できなくなり、蒔絵を描かせたり、高くつくとはいえ、上質のべっ甲を選んだりした。 極上品は二両した。 これによると、元禄には既にべっ甲が珍しくなくなったため、質にこだわり、華やかな装飾をほどこしたものがもてはやされたという。 琉球*注4・大陸渡りの甲羅、ないしべっ甲の半製品は、出島のある長崎から京・大阪に、次いで江戸へ渡った。 工芸もまず長崎にはじまり、その技法が三都に伝播(でんぱ)している。 江戸には腕のいい飾り職人がおり、金銀蒔絵のほかに玉虫色に光る螺鈿(らでん)や彫刻をこらし、技の粋(すい)を競った。 『我衣』には「…早正徳の頃は、下女も鼈甲をさし、ぐるぐる結也」ともあることから、元禄から下ること23年の正徳年間にはかなりべっ甲が広まっていたのだろう。  とはいえ、当時、べっ甲は舶来*注5の高級品であり、財力のある大名の妻女や丸山・島原・吉原の花魁(おいらん)、豪商のご用達。庶民には高嶺の花であった。 宝暦・文化年間のべっ甲の流行により価格はさらに高騰(こうとう)し、中には百両を超す贅を尽くしたと思しき櫛もあったという。  1804年〈文化元年〉、江戸から長崎へ赴任した支配勘定方の太田南畝(おおたなんぽ)*注6は、 笄かんざしなど此節市中拂(はらい)ものに出候も、かんざしは二本にて六七百目などいう事にて、けしからぬ事に候 ※意訳 この時期、笄やかんざしなどの支払いで長崎市中に出るが、かんざしは二本で600目から700目もする。全く、あまりに高い。 と手紙でこぼしている。 このため、抜け荷や盗みといった犯罪も起きた。 1751年〈宝暦元年〉には、遊女が出島の唐人屋敷からべっ甲の櫛を盗み出している。べっ甲の美しさに魔が差したのか。 髪は女の命というが、この時代のべっ甲は「さす」もので、櫛・かんざし・笄の代名詞にすらなっている。 中でも、女の魔よけとの言い伝えがある櫛は特別だったようだ。 四谷怪談のお岩が髪をすく櫛も母のかたみのべっ甲である。 お岩は体をふるわしながら鉄漿(かね)を付け、それから髪を櫛(す)きにかかったが、櫛を入れるたびに毛が脱(ぬ)けて、其の後から血がたらたらと流れた。 「やや、脱毛(ぬけげ)から滴る生血(なまち)は」 よろよろと起きあがって、「一念貫(とお)さでおくべきか」 南北の東海道四谷怪談 田中貢太郎 [...]



◇粋の系譜 魅惑のべっ甲—日本べっ甲史— Part3

2007-05-04T02:43:35+09:00

●秘薬としてのべっ甲

 べっ甲の利用は装飾品だけに留まらなかった。
漢方薬の辞書『本草綱目』(ほんぞうこうもく)*注845巻介部には、色々な亀の薬効が載っており、玳瑁の項もある。
本草によると、生の甲羅を削った粉には鎮静・解熱・降圧の効果がある。
倹約令〈奢侈(しゃし)禁止令〉により玳瑁をとり引きできなかった江戸初期でも、こと薬種に限っては認められていた。
現在も中医学では、玳瑁のみならず亀の甲羅を亀板(きばん)、すっぽんを土鼈甲、または別甲といって処方しているが、これらの亀は各々用法が分かれている。
もっとも、最近の和漢〈日本で発達した漢方〉は生きもの由来の薬種を避ける傾向にあるらしく、玳瑁はおろか亀の利用もすたれてしまった。

●職人の技巧 火と水と力と

あめ色にあくがる
 今でこそ、べっ甲の最上品は斑点のない白甲だが、正倉院の工芸品に黄色の甲は少ないという。
1862年〈文久二年〉発行の『玳瑁亀圖説』というべっ甲図鑑の時代時代の髪飾りの描写を見ると、 元禄はもとより、亨保年間にも「茨布」(ばらふ)と呼ぶべっ甲独特の褐色と黄色のまだら模様が主だったのが、技術の進歩と原料の爪甲(つめこう)の供給によって、天保年間には琥珀のように美しい黄一色へと移っている。
また、同書には、
色合最上の物は、(image) (こ・玉へんに逓のつくり)珀の上品に金珀(きんぱく)云物有。是と同しうして薄黄に透通るきみ有り。
上晶(ぬき)甲と云は白身多く、黒斑少し。其の替(がい)、貳百五六拾替より三百替、四百替也。此の外以上の替の甲も稀に扱事有之。
※意訳
最も色あいのいいものは、上質な琥珀に金箔をかけたような色味で、薄黄色に透きとおっている。
上晶甲というのは、白い部分が多く黒斑は少ししかない。位は250か60替から300替、400替まででそれ以上の甲もまれに扱うことがある。
ともあることから、白甲が最上品になったのはどうやら江戸時代と言えそうだ。
べっ甲ができるまで
(image)  ここで、べっ甲の昔ながらの製法を見ておこう。
基本は型抜きと熱による接着、みがきである。
甲羅を万力で平らにのばし、型に合わせて切り抜いたあと、厚みを出すため、あるいは複雑な造形を表現するために素材を重ね、熱したこて・鉄板で甲を張り合わせる。
べっ甲は天然の膠(にかわ)分を含むため、水と熱でくっつく性質がある。 その後、鮫皮・角粉(つのこ)・鹿皮・椋(むく)の葉等で丹念にみがくと独特の光沢が出るのだ。
 白甲には透明に近いものから橙色まで色の濃淡があるが、結合時の熱の入り方で色をかえられる。熱くすればするほど黄色がかり、反対に温度が低いと淡色に仕上がる。
職人の経験と門外不出の技法がものをいうのだろうか。この調節に失敗するとこげてしまうという。
まるで「べっ甲あめ」だが、もともと透明の甲を濃い橙色にするような劇的な操作は期待できないとのこと。
べっ甲の真贋
 宝石の宿命というべきか、「張りべっ甲」〈べっ甲と水牛の角や馬のひづめなどを卵白で張り合わせる技法〉が誕生するや、偽造品が氾濫することになる。
『嬉遊笑覽巻一下 容儀』に曰く、「べつかう高價にて寛保頃細工人に上手出来て水牛の色よきべつかうの黒斑を入て上べつかうのまがいに賣と云れど、朝鮮べつ甲にてまがい作る事はその先よりあり」。
前出の『守貞謾稿』の女扮の巻きでは、偽べっ甲について詳しく解説している。
朝鮮鼈甲は贋物にも非(あら)ず。一種の下品玳瑁なり。贋造(がんぞう)には牛角を以てし、弐は馬爪を以て贋る事也。
…文政末・天保初頃より馬爪の櫛・笄・簪(かんざし)とも表を薄き鼈甲を以て包み製す。故に甲賣も真偽を弁じかたき迄に模造せり。
※意訳
朝鮮べっ甲は偽ものというよりは、一種の低質な玳瑁である。牛角か、馬爪を用いて偽造する。
文政末・天保のはじめ頃から馬爪の芯の表面に薄いべっ甲を張った髪飾りができた。これによって、甲売りも真偽の判断がしにくい精巧な模造になった。
 ちなみに、本べっ甲と偽ものの見分け方を江戸べっ甲の職人に聞いたところ、磯貝鼈甲磯貝剛氏は「色と感触」を挙げ、赤塚べっ甲赤塚顕氏は「匂い」を挙げた。
私見では、白甲は落ち着いた色合いで彩度がそれほど高くなく、内からにじみ出るような照りがあり、光にあてると深く輝く。茶褐色から黒褐色の黒甲には、重厚で品のいいつやがある。
また、色に関わらず本べっ甲は密度が高く締まったような固い質感が特徴だ。かすかにひんやりとしたさわりごこちは強いていうと石に近い。この髪飾りがかつて「頭痛とり」の異名をとったのもうなずける。
亀裂や継ぎ目のないなめらかな肌あいも確認したい。
 但し、「細工人に上手出来て」ではないが、本ものと区別がつきづらい精巧な偽造品もあふれているので、鑑定は専門家に任せるのが確実だろう。
*注8 本草綱目
明の李時珍撰の漢方薬学全集。ありとあらゆる薬種の主治・処方等を解説する。
日本でも幕末までは権威があり、翻訳本が版を重ねた。
薬用としての玳瑁は宋にはじまる。



◇粋の系譜 魅惑のべっ甲—日本べっ甲史— Part4

2007-05-04T02:48:14+09:00

●べっ甲工芸の今日

 現在、CITES〈ワシントン条約〉では玳瑁を「近未来に全滅する危険がある」としてCRに指定、最も厳しい制約下で保護している。
1994年、日本は条約に同意して正式に輸入を止め*注9、べっ甲の原料は調達できなくなった。
べっ甲職人はそれ以前にためた甲羅でこ口をしのぐ状況が続いている。
経済産業省によると、2003年の国内のタイマイ在庫量はおよそ80トン。底をつくのは時間の問題だ。
鯨のように調査の名目で捕獲した玳瑁のとり引きも、関係者は「ない」と口をそろえる。
日本べっ甲協会の話では、象牙のようにたとえ限定でも規制を緩めることと、タイマイの人工繁殖を目標にしているが、この条約の背景には各国の様々な思惑があるだけにやすやすとはいかないだろう。
繁殖も政府が予算を割いているものの、亀は寿命が長く研究に時間がかかるため、まだ実用には至っていない。
「今後の原料の確保は?」と方策を訊ねると、職人は「なくなったらおわりだよ」と笑った。
乱獲には問題があるとしても、べっ甲工芸の灯火(ともしび)が消えるとしたら、残念なことだ。
 べっ甲工芸の将来を考えると、原料の確保以外にも不安が残る。
伝統工芸ではよく耳にする話だが、後継者がおらず、それまで積み上げて来た高い技術の担い手がいないというのだ。
今や若者の多くがべっ甲を斑模様としてしか認識していない。手にとる人も少なくなった。
需用がなくなれば供給もなくなるというごく当たり前の原理がここにも覆いかかる。
 べっ甲を模した商品は巷(ちまた)を席捲(せっけん)している。こうした代用品は入手しやすいばかりか、安くて扱いも楽だ。さらには一見して真贋がわからない。
今、楔(くさび)を打っておかなければ、やがて若者が壮年になり経済力をつけても、べっ甲にふり向きはしないだろう。
 大正時代の名工・江崎栄造*注10氏の渾身(こんしん)の作『岩上の鷲』(がんじょうのわし)の写真を見ると、あたかも魂が宿っているように鷲の肢体に力がみなぎり、次の瞬間には羽ばたきそうなまでに生き生きとしている。
作品は1915年のサンフランシスコ万国博覧会で優勝の快挙をなし遂げた。この知らせに長崎は湧き、べっ甲職人はますます腕をみがいたという。
べっ甲を美術品に昇華させた江崎氏は、後年、技法の伝承を目的とした長崎県指定の文化財の栄誉を受けることになる。
氏が芸術という新しい道を模索してべっ甲工芸に風を起こしたように、伝統を守りながらも、時代に即した工夫をこらせるのではないか。

 べっ甲をながめていると、あめ色の透きとおった世界に吸いこまれそうになる。日にかざせば、光を反射して、古来より日本人を魅了して来たまばゆい輝きを放つ。
そして、べっ甲工芸には、このまま衰退へ向かうのを運命として諦めるには惜しい技術の研鑽(けんさん)と長い歴史とがある。

 時代のうつろいとともに失った記憶 —べっ甲の魅力を思い出させるには、販路の拡大や新素材との融合といった関係者の努力が不可欠であろう。
*注9 正式に輸入を止め
日本は条約への署名をしていなかった1992年から玳瑁の輸入を停止している。
*注10 江崎栄造
長崎の職人で江崎べっ甲店の六代目。

参考文献
浮世絵美人くらべ ポーラ文化研究所
燕石十種第一巻 岩本活東子編
江戸時代図誌25 長崎・横浜 越中哲也、大戸吉古
嬉遊笑覧 喜多村信節 成光館出版部
京都江戸・職人のわざ 阿部文枝文 川西正幸写真
原色日本の美術18 風俗画と浮世絵師 小学館
正倉院年報第十三号 宮内庁正倉院事務所
玳瑁亀図説:天・地復版 金子直吉 東京鼈甲組合連合会
玳瑁考 越中哲也
ながさきの空第十四集 長崎歴史文化協会
長崎べっ甲物語 橋本白杜
日本の美術3 結髪と髪飾 橋本澄子編
日本べっ甲文化資料館 社団法人日本べっ甲協会
守貞謾稿 喜田川守貞 朝倉治彦編
谷中根津千駄木其の七十号 谷根千工房