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窯ぐれ



は、陶芸のみならず日本の美術、芸術の社会的基盤その構造現場において、文化としてのあるべき "かたち" をもとめます。ひとがひとである為に、そこに堆積されるもの全ては、批評と評



Published: 2017-11-18T12:25:40+09:00

 



素描、変わらぬもの

2017-11-14T12:12:00+09:00

習作のための素描、これは、大学時代のもの。そこに技巧はない。ものの見方は変わっていない。下のものは、50年ぶりに、太平洋で描いたもの(その間、素描そのものは折に触れてやる)。技法について、人の殺傷を目的とする戦技には、必要なるそれも、日本古来の武道には不要である、その要諦からは、ものをみるという行為との共通性がわかる。対象を引きずり込んで捏ね回すという概念の愚かさ。



素描、対象からの離脱

2017-11-10T11:29:00+09:00

クロッキーにおける臨場感の本質性、これ如何に大切であるか。リアリティなき描線、それは、木偶の写しなるに等しいものか。名庭を造る庭師は、草木を眺ること数時間、庭鋏を動かすこと数分である。対象をおのれの自我と対話させるとは、そのような時間的、空間的存在にあるということか。今週は、体調不良体調不良のため、休むことにした。これは、先週のさらに一枚である。



素描、臨場感の欠如

2017-11-06T11:20:00+09:00

クロッキー、、対象と向き合う、対話をするその場の必然性、そこにおいての場所性というものは必須である。場を離れた途端その必然なる対象は存在をしないわけである、存在なきものを存在させるとは空疎なる幻影に過ぎないものとなる。それをあたかも対象を前にして一枚の紙に定着させたかのごとく、速写とは何たるか理解できない行為、状態性というものを無視、固定した屍としか捉えることのできないもの、その描線は、予習も復習もありえないということなり。



素描、今週の今週の一枚

2017-11-01T11:34:00+09:00

またまた、興の湧かない対象なり。市中、異形の体型をみるにつけ、その対象の持つ造形的素晴らしさに懇願したい衝動に駆られる。



素描、今週の一枚

2017-10-29T16:09:00+09:00

週遅れの掲載となってしまった。そも興の湧かない対象なり。舞うことを知らぬ、その通俗的手踊りの繰り返しに飽いた。これは、塊として捉えた、これに尽きると、そんな一枚か。状態性を必死に受け止める、その手段として、対象自体の場所性、その部分の移動を湧き上がる他者性を捉える、、、



素描、今週の一枚

2017-10-18T10:59:00+09:00

掴みどころの乏しい対象、塊としてのそれが欲しい。ゆえ歪なるものに惹かれる、屈する対象に生まれる塊の移動に漸く対話らしきものが芽生える。



素描、今週の一枚

2017-10-11T11:15:00+09:00

舞うことなきその姿、対象との緩やからる対話成立せず、身体性が感じられない、魂なき木偶の如し。



素描、今週の一枚

2017-09-24T10:29:00+09:00

今週の一枚。対象に接する途端、その出会いの緊張状態が崩れることがある。対象をして凝結物としてしまう瞬間だ。何とか持ち直そうと捏ねてみる。溶解された対象は、少しずつ他者の他者たる他者性を表す。まず添うてみると言うことだろう。それにしても、場所性に照らし、対象に対するポーズの仕切りとは勘違いであるだろう。クロッキーなれば、指図するその余裕はなきものか。はた、西欧におけるモデルとは、美術教育の現場で、かの人物が教師に並ぶこそあれ、甚だ僭越と。



素描、今週の一枚

2017-09-17T11:14:00+09:00

今週の一枚。今週も変則的に2点。人体、即立ち姿は、日常的認識である。それが当然のごとく自己完結された対象として。存在が存在にとどまらない開かれたものとして、その日常性を抽象性を、解放したものとしてもう1点を。



素描、今週の一枚

2017-09-12T12:24:00+09:00

今週の一枚。ステッドラーB4を使う。均整ある対象は、、、上の一枚は、画像化することで、対象そのものが完結されるかの様相が顕である。所謂面白味に欠ける。わたしは面や線ではなく、存在としての量を、その多様なる場所性をみたいが為、崩した姿勢の折にみらるる塊の移動を待っのだ、下の一枚。今週は変則的に2枚とした。



素描、今週の一枚

2017-09-11T12:26:00+09:00

今週の、とはならないが、これは9月2日の作品なり。再び、ステッドラーB6を使う。ヴォリームある対象には、これが適切かと感じる。負けじとぐいぐい押し付ける感触が、対象をして存在せしむこと多々あらん成りか。折々の感慨、それはそうと、以下の言葉に出会うー 「究極の対象はもはや自然自体ではなく、人間の質問にかけられた自然であり、その限りにおいて、人間はここでもふたたび自分自身と向き合う」、、、表象としての対象と向き合うことによって、あるがままの世界とはで会えなくなる、、、ーリ・ウファン著、出会いを...



素描、今週の一枚

2017-09-05T12:03:00+09:00

今週の、とはならないが、これは8月26日の作品なり。再び、ステッドラーB6を使ってみる。諏訪神社の祭礼の音が気になり出し、最後までそぞろななままクロッキー帳を閉じる。わたしと対象の確認作業、そのはじめの運用に失敗した。



素描、今週の一枚

2017-09-04T10:58:00+09:00

今週の、とはならないが、これは8月19日の作品なり。猛暑の中を出かけた。ステッドラーB6を使ってみる。濃く、ざらざら感が対象との間合いを測るにぴったりである。ただ、線が太いので、細やかなる表情が出し切れない。暑さに対し、ねじ伏せようとするわたしがいるようだ。



暑中お見舞い 2017

2017-08-06T11:31:14+09:00




素描、今週の一枚

2017-07-30T10:51:00+09:00

対象もそれなりの均整と大きさを兼ねると、負けまいとする意識を何処か引摺ったまま、ことを進めようとしてる自分が存在する。当然ながら立ち上がる確認作業に追われ、その線は鈍い。或いは、真逆に取っ掛かりから、ぐいぐいと捻じ込めてしまう。いずれも対話の不成立である。不均衡なるものに、いつの間にか寄り添う時に感ずる、穏やかなる自分の存在こそ、作業の進捗の測りとなる。



素描、今週の一枚

2017-07-23T10:11:00+09:00

モチーフらしい動きをみせてくれた対象であった。要領が配分されたその形態移動であった。次のポーズに期待を持たせてくれることは、描きてにとって有難い。一段、腰を落として対峙する気にもなる。そう言う意味からも、いかにモデルの技量とは、重要かが知れると言うものだ。あるいは、海外の美術教育の現場においては、かの人物は、教育者にも同列されると言うことが理解できる。



フランス、スモール・アート・オブジェクト2017

2017-07-19T10:47:00+09:00

フランス、ヴァロリスにおける「スモール・アート・オブジェクト2017」において、これもささやかながら、「賞10撰」の一つに選ばれた。ヴァロリスとは、1946年から約10年余り、かのピカソが、この地で陶芸に熱中したことで知られている。焼き物に出会ったことは、大いにそのインスピレーションをかきたてた。ヴァロリスが伝統的に陶器の産地であることにもよろうが、ピカソ以外にも数多の美術家が滞在している。以上からしても、この度は、ささやかながらも嬉しいことである。



ハンガリー、国際シリケイトアート・トリエンナーレ

2017-07-17T10:36:00+09:00

出展作品 「非色;他者性(05-28-1)」The exhibition of the 5th International Triennial of Silicate Arts will be held from 3 September to 30 September 2017 in the Kecskemét Cultural and Conference Centre.ハンガリーの国際陶芸スタジオは、国際的に関心のある陶芸家にとっては、一度は滞在してみ...



素描、今週の一枚

2017-07-16T11:10:00+09:00

取っ掛かりに苦労する。鉄筋には、異形鉄筋とよばれる建築用のものがある。文字通りそれは、セメントとの絡まり具合に相性よく凹凸状の異形である。絡まりがなければ何事も、その運用は滑ってしまう。それが良きにつけ悪しきにつけ。対象の入場の瞬間、わたしの心の内は、萎えるか、興が沸くかのどちらかである。これも苦労して立ち上がりを見極めた対象である。微細な異形を探索したと言うことか。その運筆は踊っていない。



素描、今週の一枚

2017-07-09T11:49:00+09:00

対象から眼を離さない、と聞くと日常的動作のそれと関連づけてしまうかもしれない。我々の日常的ものをみるその自我の働きとは、甚だ曖昧である。大抵のそれは、他我なる立ち上がりに乏しく無数のそれらを抑圧することで、平穏として次なる所作に移行する。でなければ、その神経系統の健全なる保持は困難なものとなってしまう。だが、美的行為におけるそれは違う。溢れんばかりの他我なるものの確認作業を、リズムあるものとして捉えること、それが、美的行為というものである。いっぽんの線はその表れでなければならない。



素描、今週の一枚 - 曲(くせ)を排除する

2017-07-02T11:35:00+09:00

ボリュームがなく、取っ掛かりに苦労する。それは、他我なる立ち上がりの時間的超過となり、必然的にきっ先の停滞を呼び、そのリズムある運用を妨げる。おまけに多弁なる対象(モデル)ときているから、なお更それは、イライラを募らせる。自らを冷静にと、諭しつつ対峙することとなった。クロッキーとは、削ぎ落としの美であろう。両義的にも、それは粉飾を纏うこととあっては、絶対にあってはならない。曲をつけて舞うことを突き放すことで、捉えるものもあろうと言うことである。



素描、今週の一枚

2017-06-28T11:31:00+09:00

今週の一枚はこれ、と言っても、一枚のみを提出するのは、何時もながら難しい。自分のテーマ沿ったものなのか、数ある中の出来栄えであるのか、ポーズの面白味にするか、悩むところである。この一枚は、対象がつくりあげる起伏、思わぬ処にできる弛みに芯先が誘われたと言うべきか。立ち会うものの確認作業が臨場感となって表現されているならば成功であろう。



国際陶芸ビエンナーレ

2017-06-28T09:57:00+09:00

The 8th Gyenggi International ceramic Biennale 2017, International Competition GICB 2015韓国国際陶芸展は、長たらしいが、これが正式の名称である。陶芸の世界的コンペティションは、現在4つあるとされる。わが日本もあるが、日本の常として、「伝統」の横槍が入り込み、それは根強く権威的である。得てしてそうではあるが、それはまた芸能人的軽さのフットワークに縁どられている。それが、解放された存在であるかの...



素描、今週の一枚

2017-06-19T10:57:00+09:00

今週の一枚はこれ。対象への「他我」の立ち上がりとは、その運筆に反映される素描とは、おのれと紙上に臨場感を定着させる。わたしには、限りなく対象との凝縮した距離感というか - 空間的なものであり、時間的なものでもあるのだ。空間的とは、文字通り空間そのものであり、この場合の時間とは凝縮されたそのものということである。今週は、今週の一枚とはならいが、参考に下の作品は、やや時間をかけてある。描き込んだものはそれなりにそれなりであるが、破調の雅味からは遠くなる気がしてならない。要するに面白さに欠ける。...



素描、今週の一枚

2017-06-12T11:26:00+09:00

ボリューム感のない対象には、やはり興が湧かない。やり辛さがある、掴みがないということか。これは、対象をややデフォルメして全体を塊として捉えた。一瞬という数分、あるいは数秒のスクロールこそが臨場感ある痕跡を残す。陶芸における施釉の流し掛けに通ずるものがそこに存在するだろう。数秒に過ぎない - それは間違いであり、その数秒とは、これまでに背負ふてきた全行程そのものが付加されているということだ。



素描、今週の一枚

2017-06-08T10:57:00+09:00

ステッドラーの紙に押し込める抵抗感は、臨場感を満足させてくれる。



素描、今週の一枚

2017-05-28T12:03:00+09:00

今週の一枚は、これなり。素描を描くとは、それぞれの造形的立場から、様々な思念がそこに存在する。クロッキーは、最もそれを端的に展開させる作業である。空間をそこに出現せしめねばならない、対象を「物体」としての塊と出来せねばならない。無数にスクロールされる線が見る者そのものであるからにして、況んや、その「もの」に彩色をし、その場の臨場感を台無しにしていないか、云々である。



素描、今週の一枚

2017-05-21T11:59:00+09:00

週毎の描き上げた素描作品を展示し、これらの作品を公的性格を具有する批判の対象としたい。今週のアップ画像は、これ、昨日、出掛けたおりの一枚なり。まだ描写の用材が定まらない。三菱鉛筆ハイユニは滑らかであるが、描き込むおりに立ち上がる対象との対話が不満なり。



太平洋美術にて、再び素描を始む

2017-03-29T11:53:00+09:00

既に数十年が過ぎた今、、いまも大学受験と研究所なるものに通うことは、進むべくその美術教育を受ける者にとって必須のことであろう。彫刻の学科に入学する為、浪人時代を含めて3ケ所のその筋の研究所に次々と通ってみた。中でも自分にとって一番肌身に合った所が、当時の太平洋美術学校であった。いっとき、受験デッサンから離れたことは抱える脅迫的不安からの解放でもあった。日暮里駅の西口を出て、喫茶店ルノアールを過ぎ、寺の角を右に折れ、路地裏のような細い道を歩くと、見えてくる諏訪神社の斜め前、モルタル造...



謹賀新年 2017

2017-01-03T12:06:00+09:00




国際陶芸展とステートメント

2016-12-01T12:39:00+09:00

「非色;他者性(10-28-6)」、作品は、2017年に開催する韓国国際陶芸展に出展が決まった。さて今日、世界中に如何程の国際と称する公募展が存在するのだろうか。それは驚く程の数であることには間違いないであろう。また、近年、東欧の伝統的に工芸芸術の優れた国が、ビエンナーレ、トリエンナーレの開催を創設した。これはインターネットの発展が大いに寄与していると思われ、この様にそれは枚挙にいとまがない。私は出来るだけ、自身の作品を海外の公募展という”振るいにかける”ことで、私自身の日本という...



既製の振る舞い

2016-11-11T11:13:14+09:00

最近よく、聞く言葉にエスタブリッシュメントなるものがある。既存の枠組みを語るものなのだが、既存のものに潜む権力性には、現状を維持する力が込められるし、伝統的振る舞いとしてのいわゆる品格を身にまといつつ前景化される。すなわちそこには、本音の部分が隠される状態となって現れる。現状に倦怠を覚えるものにとっては、それは耐え難い忍耐を強いることとなる。良くも悪くも場面の転換が必要となるのである。



ラトビア、マーチンソン賞陶芸展

2016-05-22T12:03:00+09:00

作品「非色:他者性(06-28-2)」 133.0-40.0-9.5cm、陶、シリコンチーブ、鉄。この作品は、第1回のラトビア・マーチンソン賞陶芸(国際)展に出展が決まった。来る7月15-9月10日まで、 Daugavpils Mark Rothko Art Centre にて展示されるだろう。由来するマーチンソンとは、ラトビアの陶芸家の名を冠したものである。ピタリス・マーチンソン(1931~2013)氏とは、20年前に招待をされたリトアニア国際陶芸シンポジウムで、ひと月を共に過ごした...



伝統なる先端性

2016-04-09T12:24:12+09:00

伝統が如何に先端性に満ちているかについて考えたみたい。



季節の挨拶

2015-12-19T11:23:00+09:00




振る舞い

2015-09-30T10:48:00+09:00

合羽橋の道具屋街まで、あるもの探しの散策をしに行く。作品へのアイデアは存外ごちゃごちとした場所に潜んでいるものだ。これ何かに使えるのでは、などと自問しながら有り余る雑多なものに身を浸すことは楽しいものだ。



非色 - 贈与を断ちさらなる霊性をみる

2015-09-25T11:57:00+09:00

はじめに、一連の作品はこのテクストを図解するものではない。



2015年、談話 -忖度としての他者性 -

2015-08-19T10:40:00+09:00

伝統への対峙 ー これがわたしの一貫した制作の立脚点である。伝統とはあたかも忖度を拒否するかのごとく屹立してるものの、伝統とは必要とされる歴史的、ある人々のある空気 ー「都合(知恵)」である。それがつくられしものなら、いつ如何なる時代においても、わたしたちはそれを壊すことは無論つくり変えることも可能なのである。伝統がそのように永劫不動のものでなく、それをつくる人も流れ行く三世の因縁に生きる。伝統的日本のもの造りとは、他者たるものの他者性の確認作業がその胚胎であり、ものをものとして秩序立てす...



相憐れむ

2015-07-30T12:14:00+09:00

「法的安定性は関係ない」、に関して丸山眞男から、「この究極的実体への接近度ということこそが、個々の権力的支配だけでなく、全国家機構を運転せしめている精神的機動力にほかならぬ。官僚なり軍人なりの行為を制約しているのは少なくも第一義的には合法性の意識ではなくして、ヨリ優越的地位に立つもの、絶対的価値体にヨリ近いものの存在である。」面従腹背、親しみを込めて、、、相憐れねばならないのか。



暑中お見舞い申しあげます

2015-07-22T11:02:00+09:00

暑さは、思考の働きを鈍くさせる"この暑さ"は、ますますこのくにを劣化させる、、、



永青文庫で開催される春画展

2015-06-25T11:25:59+09:00

この秋、永青文庫で開催される春画展は、春画の作品的魅力、その本質的日本の伝統的性愛文化を無味乾燥なものとすることの成り行きに、踏み込んで考えることはできないだろうか。



アーティスト・イン・レジデンス-出会い系アート・シーンにおけるシャイネスな作家の退場-

2015-06-24T12:13:00+09:00

わたしの住む地方、市制僅か六万人強の人口であるが、国際的アーティスト・イン・レジデンスの制度が自治体の活動として行われている。わたしも2、3海外でのワーク・ショップをともなうアーティスト・イン・レジデンスに参加した経験があるので若干述べることとする。



ふるあめりかに袖はぬらさじ

2015-04-29T10:58:00+09:00

「露をだにいとふ倭の女郎花 ふるあめりかに袖はぬらさじ」、、時のひとは、「遊女」にも劣る心根なのか。



非色

2015-04-01T10:43:00+09:00

「非色 Non-color」 陶、アルミニウム。スペイン、アルコラ国際陶芸展2015。着想は、有吉佐和子の「非色」から。非色とは、多様性ある存在を認めることにある。これまで、無釉の作品を造り続けてきた。それらは少なからず色彩を有していた。無釉とはいえ自然の降灰による窯変であり、炭化焼成による燻であったり。しかし、これからは、この「非色」のテーマに取り組んでいきたい。



高倉健と菅原文太の人間追求

2015-01-05T12:11:00+09:00

2013年12月1日の投稿にて、「高倉健と菅原文太」なる感慨を呟いた。それから、まったく1ヶ年が経過した昨年末、両人は揃って鬼門にはいられた。実に感慨深い出来事である。片やその喜びを相変わらず面することなく橘の勲章をさげ、此方この国の体制に意義申し立てをしつつ棺に収まった。これ、なるべくしてなった表裏一体のものである。どちらが人として立派であるかは、様々異なる立場から一概に言えない。ただ菅原文太、いうところの俳優が虚実、虚業であるとする演じる作業への悩み、そのような透徹したした彼の眼には、...



「皿倉学説」を読む

2015-01-01T11:26:00+09:00

松本清張、角川文庫の表題「偏狭者の系譜」なるもののなかに、地方在野の研究者による医学論文「皿倉学説」、その短編の題名も「皿倉学説」がある。「先人の権威に居竦んでいる」権威。弟子「後輩」は、その立場から「眼はハレーション」を起こしている。それはまさに「学説」に対する真理眼を見失っているのだ。学会の「権威」とは、それが「眩しい」ゆえに皆もて「正当な判断をうしなってる」ことなりか、対するその率直なる批判の欠如。いまもわたしたちは、小説さながらの光景を昨年に経験しているのは記憶にあたらしい...



ヌイグルミ文化

2014-11-29T11:53:00+09:00

「寄生」、陶と異素材。2015年開催の国際展の一次選考を通過。陶を異なる素材に巻きつけ、「寄生」や「共生」という大きく括ると他者性なるテーマは、わたしの作品表現として20年以上が経つ。しかし近年、それを表現するひとつとして「陶と異なる素材」なるものの表現がその機知があまり受け入られなくなったと感じていた。故にこの度の通過が意外なものという感が否めない。最近の流行りはポップカルチャーを被った文字どおりヌイグルミ作品が時代の先をいっているのである。純粋芸術も応用芸術もその括りは学問上の...



帰納的推理

2014-08-30T12:30:48+09:00

「帰納的推論」、ここの「うつわ」が具体的ものとするなら、事実とするなら、抽象造形化されたこの作品から何ものかを導き出されるだろう推理が存在するだろう、、、作品は、セレス2014、国際陶芸・ガラス展(トルコ、アナドル大学)に出展。



暑中見舞い

2014-07-27T10:57:00+09:00

夏の風物詩か、、、甲子園球児、終戦にまつわる原爆の惨状などなど、どれも過酷という意味でこころに迫るものである。また、美術博物館による企画展。これなど前のものに比べると結構安易なものである。決まって出てくる蚊のようなもの。刺されると若干の痛みを感じるものの、ピシャリと叩けば終わりである。既に評価が決まった作品を展示するより、過酷ないま現在に対峙している作家、それも学芸員自らの「我見」でもってみせて欲しい、、、



集合作品

2014-07-03T10:16:00+09:00

「器;他者性」、集合作品である。他者たる他者性を確認することの重要性。属性もまた他者たる他者性なり。2014、ハンガリー国際シリケイト・アート・トリエンナーレ出品作品。